水 江戸の水道 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

水 江戸の水道

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 日本に水道ができたのは、明治になって外国の技術が入ってからのことだと思っている人が多いが、一般の飲用を目的としたもっとも古い都市型水道は、江戸の神田上水で、天正十八年(一五九〇)にさかのぼる古い歴史がある。
 この年、徳川家康は、新しく建設する江戸城の城下に飲料水を供給するために、目白台下で神田川の水を分けた水路を設け、いわゆる小石川水道を作らせた。江戸は、海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が広い面積をしめていたため、井戸を掘っても良い水が得にくく、飲料水は入工的な水道によって引いて来るほかなかったからだ。
 小石川水道は、人口が増えるにしたがって少しずつ拡張され、寛永六年(一六二九)頃には、井の頭や善福寺池、妙正寺池などを水源とする神田上水として完成していた。水道といっても、最初は清水の流れるみそのようなものだったのだろうが、完成した時は、地中に埋めた木製の伏樋(ふせび─配水管)の総延長が六七キロメートルというかなり本格的な上水道に成長していた。
 目白下の関口大洗堰で神田川から分かれた神田上水は、今の後楽園付近
を通って、今度は神田川の上を懸樋(かけひ)で渡った。現在は、JR線電車の駅名に
もなっている『水道橋』は、この懸樋がすぐ西側にあったのにちなんて名つ
けられた橋の名である。
 神田川を渡った神田上水は、ふたたび地下に入って神田から日本橋方面、つまり江戸の下町の北半分に給水された。ついでに書いておくと、現在の東京では商業地をどこでも下町というが、江戸で下町といえば、日本橋を中心として北は神田、南は京橋、銀座、新橋あたりの地域に限られた呼び名だった。
さて、昔の水道は<自然流下式>といって、地下の配水管の中を流れているだけだから、水を使う時には<水道桝>とか<水道井戸>とか呼ばれた穴からつるべを降ろして汲み上げたのである。水道桝の下は、普通の配水管の部分より深くしてあって、つるべを沈めて水を満たしやすい構造になっていた。
 桝の数は、神田上水系だけでも三六〇〇以上あったという。神田上水の給水地域の面積は、約五平方キロメートルだから、大ざっぱにいって三〇メートルか四〇メートル四方に一ヵ所の割合で水道が汲めるようになっていたことになる。
 大部分は、共同の桝だったが大口消費者の場合は、専用の<呼ぴ井戸>が引き込んであった。水道の蛇口が一軒の家の中に何ヵ所もあるのが普通になっている現代人の感覚では、とても不便で我慢できないように感じるかもしれない。しかし、三百五十年前の人にとっては、大都会にこれだけの設備があるのは、世界的な水準からいっても驚異的な便利さだったのである。
 下町の主な地域の給水が神田上水でまかなわれていた当時、江戸城周辺、山の手では、赤坂溜池の水を上水として使っていた。溜池は、現在では町名変更という愚行によって地名も消えてしまい、わずかにバス停に名前が残っているだけだが、幕末期まではかなり大きな池だった。江戸時代初期は、神
田川の支流のような江戸城外堀で、貯水池のような役割を果たしていたらしい。
 徳川幕府の支配体制が整うにしたがって、江戸の人口は爆発的に増え始め、神田上水の水量では次第に需要に追いつかなくなった。そればかりか、溜池も、周囲の武家屋敷が増えるにつれて生活排水が流れ込んで水質が悪くなり、上水の水源としては不適当になって来た。公害問題の始まりである。
そこで、まったく新しい水源が必要となり、さまざまないきさつがあったのちに開かれたのが、玉川上水だった。
 玉川上水は、多摩川の羽村から取り入れた水を江戸へ引く人工水路で、当時としては空前の大工事だったが、承応二年(一六五三)二月に着工して、わずか七ヵ月で四谷大木戸まで、全長四三キロメートル、落差九ニメートルの水路を開通させてしまった。関東ローム層を掘る比較的やさしい工事なの
だろうが、その早さには驚く。
 玉川上水によって、四谷から麹町、赤坂などの山の手つまり高台一帯から、下町の南部である京橋方面まで水道による給水ができるようになった。
十七世紀後半に入ると、当時すでに一〇〇万に達していたという江戸市民の六〇パーセントまでが、水道で生活していた。
 古いものを目のかたきのようにして破壊し尽した第二次大戦後の風潮の中で、玉川上水は埋め立てられもせず、また、暗渠にもコンクリートで固めたみぞにもされず、東京都水道局によって奇跡のように保存されている。細長く続く武蔵野の名残の緑の帯は、特に小平市あたりでもっともよく昔のおもかげを留めている。最近では水も流れていて、美しい散歩道として有名だ。
 ここに掲載した絵は、文政十年二八二七)刊行の『江戸名所花暦』という観光案内の本に出ている桜の名所、小金井橋である。筆者は、勤務先の大学へ通勤するため、絵の右側の道、つまり五日市街道をしばしば通るが、住宅が増え、駕籠や馬が白動車に変っているものの、この雰囲気は今でも濃く残っている。
 玉川上水の豊富な水が使えるようになった結果、江戸の水道はどんどん延長され、ついには、地下に埋められた配水管の総延長が一五〇キロメートルに及び、給水人口、給水地域の面積ともに、当時としては世界最大の給水システムに発達した。
 ~エネルギーの点から水道を考えてみよう。
 まず、江戸時代はどうだったかというと、世界一の規模だった江戸の水道でさえ、わずかな人力を除けばエネルギー消費ゼロで運営されていたというほかない。現在の水道では、水を加圧するためのポンプがかなりのエネルギーを消費するが、水を井の頭や多摩川から江戸へ送るには、海岸に近い江戸市街との高低差を利用して流しているだけだから、エネルギーは消費しない。
 水を高い所へ揚げるのは、主に海の水が蒸発して雨として降るのを利用しているのだから、太陽エネルギーのただ乗りで、もちろんエネルギー消費とはいえない。
 水路の工事には、かなりの人力が必要だったが.毎日一〇〇入が働いたとしても、七ヵ月でのべ二万一〇〇〇入。一人一日の労働エネルギーを一〇〇〇キロカロリーとして、二一〇〇万キロカロリー。石油にして二一〇〇リットル、ドラムカンで一〇本そこそこにすぎない。これは、小型乗用車を一台作るのに必要な総エネルギーとほぼ同じだから、ほとんど取るに足らない。
 もちろん、このほかにも配水管を作ったり埋めたり修理したりするのにかなりの手間がかかる。また、複雑な水道システムを維持するためには、水番人という水道専門の技術者がいて、休みなく水の状態を監視していた。これらの運営に必要なエネルギーが、建設に必要なエネルギーの一〇倍必要だったとしても、江戸の水道は、小型乗用車を一〇台製造するのに必要なエネルギーで建設、運営できたことになる。
 このわずかなエネルギーを、その後二百数十年間に流した水量で割れば、一トン当りにつき限りなくゼロに近づくことは明らかである。また、市中の地下水路も幹線が石製、支線が木製だから、これも天然物であって、人類がエネルギーを使って作り出した材料ではない。
 つまり、東京と静岡間の距離に相当する給水管のある江戸の巨大水道システムは、ほとんどエネルギー消費ゼロで立派に機能していたのである。
 そればかりではない。明治以後のように外国のまねばかりして来た時代と違って、まねをする相手もなかった江戸時代の水道は、あらゆる点で非常に独創的な技術が使われていた。当時の外国の水道事情を調べると、このことは一層はっきりする。
 江戸時代の江戸に比べられるほどの大都会といえば、この時代ではロンドンとパリしかなかった。十九世紀初頭の人口で比べるなら、ロンドンが九〇万人、パリが五〇万人、江戸はすでに一〇〇万入を超えて一二〇万人程度になっていた。ニューヨークは、 一八〇〇年でさえたったの六万人強だったか
ら、まだとても都会といえるような状態ではない。
神田上水や玉川上水ができた当時、本格的な水道があったのは世界中でロンドンだけだった。一六一八年つまり神田上水の十一年前、玉川上水の三十六年前に、ロンドンでは約三〇キロメートル離れた高地の湧水をニューリバーという人工水路で引いて配水する民間の事業が始まっていた。玉川上水のイギリス版といえるだろう。だが.この水路の建設は難工事で、四年もかかったという。
 ロンドン市内での配水は、丸太の中をくり抜いた配水管を地下に埋めずに地上に置くなどの違いこそあったが、こちらも太陽エネルギーと重力を利用したエネルギー消費ゼロの自然流下式であって、時代としても技術にしても、江戸の水道のきょうだいといっていいほどよく似ているから面白い。
 ついでに書いておくと、パリの水道はニューリバーや神田・玉川上水に比べてはるかにおくれていた。ナポレオンの命令によって水道専用のウルク運河ができたのは十九世紀に入ってからで、それまでは主にセーヌの水を水車で汲み上げて飲用に使っていた。セーヌ川には、有名な大下水からの汚水が未処理のままで放流されていたから、パリ市民たちは自分たちの排泄物などで汚染された水を飲んでいたことになる。給水設備もかなりお粗末な状態だったらしく、もちろん、生水のまま飲むことはできなかった。
 わが江戸時代の先祖は、水に関してはなかなかしっかりしていたのである。
 江戸の水道のことをもう少し書こう。
 自然流下式で江戸市中の地下を流れた水は、最後にどうなったか。余り水は、上水の吐け口と呼ばれる木樋の末端から日本橋川沿いの川や堀へ流れ落ちた。この水も、幕府御普請方の許可を受けている業者が水船という専用の運搬船で受けて、本所や深川のような水の不自由な地域へ運んだ。
 さらに末端の消費者の所へは、これを仕入れて桶に入れ、天秤でかついで売り歩く水屋という商人が売って歩いた。こうして、井の頭や多摩川の水は、隅田川の対岸の地域にまで運ばれて市民の生活を支えたのである。
 明治維新のあと、江戸の水道は幕府から東京府に受けつがれた。複雑な水道システムはとても素人の手に負えるものではないから、水番人たちはそのまま東京府の職員となって水道の維持に当たった。現在の東京都水道局は、徳川幕府水道役所の直系の子孫という世界的な名門なのだ。
 そのせいだろうが、現在の水道と江戸の水道とを比べると、運営の仕方に驚くほど似た点があるという。
 老朽化した神田・玉川の両上水は、新しい加圧式の水道が東京市内全体に行きわたった明治三十四年(一九〇一)六月まで給水を続けた後、三百年に及ぶ長い歴史を終えた。江戸の水道は、実に二十世紀のはじめまでそのままの形で使われていたのである。
現在でも.東京の都心部の地下工事をすると、あちこちから江戸の名残の古い水道の木樋が出て来る。
 それでは、現在の東京の水道はどれぐらいのエネルギーを使って運営されているのだろうか。
 東京都全体となると複雑なのて、最大の金町浄水場てのテータによると、一トンの上水を作って蛇口まて送るのに、六五八キロカロリー使っている。一ヵ月に一〇トン使う家庭なら六五八〇キロカロリーで、これても、石油にして約六六〇ミリリソトル。カップで三杯半ほどにすぎない。
 さすがに命のもとになる水だけあって、ほかの工業製品とはけた違いにエネルギー消費が少なく、一トン当りでは大さじ何杯という程度だ。
 かなり複雑な工程をかさねて作る工業製品とちがって、上水は天然の物質をほとんどそのままの形で文字通り流用している。浄化してある以外は、ほとんど加工されていないのだから、エネルギー消費が少なくて当然なのだ。
しかし、そのわずかのエネルギーでこれたけ便利に水を使えるのは、大変有難いことてはあるまいか。エネルギーの利用法としては、電灯と並んでもっとも効果的だといえるだろう。
 いろいろ難しい問題を抱えているにせよ、水道に関してはそれぞれの時代なりに何とかうまくやっているといえそうだ。

ーー(大江戸えねるぎー事情 石川英輔)