北朝鮮拉致における日本とレバノンの対応の仕方 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

北朝鮮拉致における日本とレバノンの対応の仕方

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レバノンでは、政府と左翼が協力して被拉致者を奪還した


 日本人拉致事件の経過をたどると、三期に区分できる(西岡力『拉致家族との6年戦争』扶桑社、二〇〇二年)。第一期は、一九七七(昭和五十二)年に本格的な日本人拉致が始まってから、一九八八年に梶山清六国家公安委員長が北朝鮮による拉致疑惑を国会で公に認めるまでである。第二期は、梶山発言後も拉致事件が無視されつづけた一九九七(平成九)年初頭までの時期である。第三期は、一九九七年に拉致被害者救出運動が本格的に始まってから今日までである。以下、第一期を中心に拉致事件についてみていこう。
 北朝鮮が、日本国内から本格的に日本人拉致を始めるのは、一九七七(昭和五十二)年九月十八日の久米裕の事件と十一月十五日の横田めぐみの事件からである。その後、翌年六月二十九日には田口八重子が拉致され、七月七日には地村保志・浜本富貴恵、七月三十一日には蓮池薫・奥土祐木子、八月十二口には市川修一・増元るみ子、という三組のアベックが立て続けに拉致されている。また、同じ十二日は、曽我ひとみと母親のミヨシが拉致されている。
 北朝鮮が拉致を計画的に行ったのは、何も日本国内からだけではない。一九八〇年には、松木薫がマドリードから、石岡亨がウィーンから、一九八三(昭和五十八)年には有本恵子がコペンハーゲンから、拉致されている。その後も、日朝交渉を進めていた一九九〇年代まで、北朝鮮は、日本人を合計百人以上も拉致し続けたのである。
 地村保志・浜本富貴恵らが拉致されたのと同じ頃、レバノン人女性も、北朝鮮によって拉致されている。だが、レバノンの対応は、日本とは大きく異なるものだった。一九七八年八月、レバノン人女性四人が、一口本の大手電気メーカーが秘書を募集している」という話にだまされて、ベイルートから平壊に連れて行かれる。レバノンでは、娘と何ヶ月も連絡を取れないため、家族が騒ぎ出す。そこで、一九七九年四月、北朝鮮は、四人のうち二人を、わざわざ北朝鮮の友好国であったユーゴスラビアに連れて行き、首郁ベオグラードのホテルから家族に対して「私は日本で働いている。元気でやっているから心配しないで」という電話をかけさせる。北朝鮮からの電話は、オペレーターを通すため、すぐに娘が日本ではなく北朝鮮に居ることがばれてしまうからである。
 拉致されて一年後、再び二人はベオグラードに連れて行かれて電話をかけさせられるが、電話をかけた後、隙を見て逃げ出してクウェート大使館に駆け込み、レバノンに帰国する。
 レバノン政府は、二人から自国の女性四人が北朝鮮によって拉致された事実を知るや、この事件について調査するとともに、残る二人の女性の解放を厳しく北朝鮮に対して求めた。また、左翼武装組織も解放に向けて尽力し、パレスチナ解放機構(PLO)傘下の左派組織が「このままでは友党関係が壊れるが、それでもいいか」と北朝鮮に対して迫ったともいう。その甲斐あって、一九七九年十一月、残る二人も解放される(『産経新聞』一九九八年四月二十八日「北朝鮮のレバノン人拉致事件 被害女性の証言参照)。

 右のように四人が解放されるに至った要因は、三点ある。第一に家族が立ち上がったこと、第二に政府が北朝鮮に対して厳しい態度で臨んだこと、第三にレバノンの左翼が北朝鮮に対して厳しい態度で迫ったこと、という三点である。

スパイ防止法の欠如

 これに対して、日本の場合はどうであろうか。第一に、情報が伝えられなかったため、家族はなかなか声を上げて立ち上がることができなかった。それでも、一九九七(平成九)年の家族会結成以来の活動には、目覚しいものがある。何とか、政府の重い腰を動かしてきたのが、レバノンの場合と同じく、家族の熱意であることは疑いようがないことである。だが、第二に、レバノン政府と異なり、日本政府は、北朝鮮に対して厳しい態度を全く示してこなかった。第三に、社会党、共産党、新左翼といった日本の左翼は、レバノン左翼とは正反対に、北朝鮮による日本人拉致に荷担していくことになる。日本政府も、日本の左翼も、ともかく「おかしい」のである。
 日本政府の「おかしさ」は、最初の本格的な拉致事件である久米裕の事件、すなわち宇出津事件の時にさっそく発揮される(宇出津事件については、『毎日新聞』二〇〇二年十一月十五日「北朝鮮拉致事件1、断絶された情報」参照)。実は、拉致事件を根本的に解決する最初の機会は、宇出津事件の時に存在した。宇出津事件では、日本の警察は、能登半島の宇出津海岸で久米裕を北朝鮮の工作員に引き渡した在日朝鮮人を、外国人登録法違反で逮捕していた。しかも、逮捕された被疑者から工作員に引き渡したという証言を得ていた。だが、捜査当局は、国外移送目的拐取罪での起訴を考えたけれども、久米裕が見つからないから公判維持ができないと判断して、被疑者を基礎せず釈放してしまう。そして、事実上、宇出津事件はなかったことにされてしまうのである。
 宇出津事件が起きたとき、日本国は、この事件を重要な人権侵害、日本の国家主権侵害
としてとらえるべきであった。「普通の国」ならばそうしたであろうし、すぐさま一九七七年の時点で、北朝鮮に被拉致者を返せと迫っていただろう。被疑者を起訴しなかったのはよいとしても、日本政府は、広く世の中に向けて、拉致という北朝鮮の非道を訴えるべきであった。だが、日本政府は、拉致被害者を見捨ててきたのである。
 宇出津事件以来、拉致事件発生の構造は一貫している。日本は、「日本国憲法」の平和主義に基づき、スパイ防止法を形成してこなかった。そのため、工作員さえも罰することができないし、罰したとしても懲役一年程度で出てきてしまう。しかも、日本国内に工作員が潜入することは驚くほど簡単である。拉致事件が集中した一九七七年から一九七八年にかけて、海上保安庁の巡視船は不審船追跡のため年五十回以上出動したが一度も拿捕で
きなかったという。つまり、日本はスパイが自由に出入りし、自由に活動できる「スパイ天国」だったのである。今現在も、それほど状況は変わらない。

ーー(憲法無効論とは何か 占領憲法からの脱却 小山常実)


未だにこの状況は変わっていない。拉致も解決していないし、工作員も山ほどいる。一番許せないのは拉致した北だけれども、日本政府の無能さに無性に腹が立つ。

この間、知り合いと「日本が戦争はじめたらどうする?」という話をしたら、「逃げる」という人が多かった。まあ軽い感じなノリですけど。

ちょっと悲しくなるね洒落でも。