「歴史解釈権」を取り戻そう
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なぜ「大束亜戦争」なのか
石原慎太郎都知事にうかがったとても印象深い話があります。坂井三郎さんという第二次世界大戦で戦ったすべての国の戦闘機乗りの中で、一番たくさん敵機を撃ち落した撃墜王が、生前外国人記者クラブで講演をしたときのエピソードです。坂井さんは戦闘によって片方の目を失い義眼でした。
「私はご覧のように、あの戦争で片方の目をなくした。しかし何の後悔もしていない。たしかに多くの有為な人間が死んだ。彼らがもし今日生きてあるならば、数多の才能を発揮して素晴らしい貢献を国家のために為しただろう。それは慙愧の念にたえないが、それでも相対的に見て、あの戦争は、私に言わせれば偉大な戦争だったと思う」
坂井さんがそう語ると会場を埋めた聴衆(主に白人記者)はシーンとしてしまった。
坂井さんはニコッと笑って、「だってみなさん、そうじゃないですか。あの戦争が終わってからたくさんの有色人種の国が誕生し、国際連合に参加しました。一国一票を持って人類の歴史を左右する、運命を左右する権利を持った。みんな白人の植民地だった国だ。やっと有色人種が世界の舞台に出た。その引き金はあの戦争ですよ」。
白人記者の多くが憮然とする中で、石原さんは一人拍手をした。するとメインテーブルに並んでいた記者の一人が石原さんにこんなメモを渡してきた。
"Ishihara, you are an ultra rightist(極右)and a lunatic.(狂人)"
その後、石原さんと坂井さんは親交を結ばれました。あるとき、坂井さんがとんでもない話をしていると知人から聞かされた石原さんは、その話の中身にびっくりして、直接坂井さんに電話をします。「この話、本当ですか」。
「いや、石原さん、本当です」
この話というのは、坂井さんがある日電車に乗っていたときのこと。目の前に大学生が二人座った。坂井さんはどんな話をするのかと思って聞いていると、「おい田中、知ってるか。五十年前な、アメリカと日本で戦争をしたんだってよ」。田中が「えーっ、ほんと。マジ?」。
「マジだよ、お前」。「マジか、で、どっちが勝ったの」というものです。
石原さんは、「これはすごい話だ」と苦笑いし、「戦後五十年は、日本人の、植民地化も拒否し、国家近代化のための苦闘の歴史について、戦争という決して好ましくはない民族の出来事もふくめて、私たちはよくも知らずに済んできた。それは幸いなことでもあったけれど、日本という国についての本当の認識、アイデンティティを持つためには、戦争の功罪、つまりその史実を相対的に知ることが必要であるにもかかわらず、それが一向に行われてこなかった」と戦後の日本人が「知ること」を怠ってきたことを指摘しました。
さて、坂井三郎さんも表現した、"あの戦争"とは何でしょう。先の大学生はともかく、日本とアメリカが戦争をしたことを知っている戦後世代にとっても、あの戦争は「太平洋戦争」と教えられてきました。
六十五年前(昭和十六年)の十二月八日、日本は米国、英国に対し宣戦を布告しました。四日後の十二日、政府は
「今次対英米戦静支那事変をも含め大束亜戦争と呼称す」と閣議決定します。この時点で、十二月八日に始まった戦争は、昭和十二年七月七日から続いていた支那事変(日中戦争)をも含め「大東亜戦争」と呼称することが正式に決まったのです。
昭和二十年八月十五日、大東亜戦争は敗北に終わりました。その後日本は七年近くの間GHQ(連合国軍総司令部)の支配下に置かれ、占領政策として徹底的な言論統制、情報管理を受けました。その実態は故江藤淳氏の『閉された言語空間』(文春文庫)に詳述されていますが、その言論統制下の時代に日本人は「大束亜戦争」を忘れさせられ、代わりに「太平洋戦争」を教えられたと言えます。
昭和二十年十二月七日、GHQは新聞各社の代表を集め、GHQが作成した彼らにとっての「太平洋戦争史」を示し、その掲載を命じました。新聞各社はそれを特集として、開戦からちょうど四年後に当たる翌八日付の紙面で一斉に掲載したのです。朝日新聞はその後も「太平洋戦史 続編」を連載し、NHKも「真相はこうだ」というラジオ放送を開始しました。これは「真相箱」、「質問箱」と名称を変え、同種の番組は昭和二十三年八月まで約三年間続けられましたが、新聞社も放送局も、「大束亜戦争」の呼称は使わず、すべて「太平洋戦争」とし、以後長く、マスコミから「大束亜戦争」の文字は消えることになったのです。
『「真相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫)を著したジャーナリストの櫻井よしこさんは、番組の台本をまとめた「真相箱」を読み込んだ上で、その内容について「これでもか、これでもかというふうに、日本は悪い国で、好戦的で、愚かで、アメリカの平和への努力を認めずに戦争に突っ走っていったと主張する内容」で、「こんなに国民に嘘をついた悪い悪い悪い日本軍と日本政府だと強調しています。正義のアメリカはそこから日本国民を救うために、どれだけ努力をしたかーこういうストーリーを繰り返しいろいろなバージョンで日本人の心に刷り込もうとしている」と語っています。
GHQはさらに、昭和二十年十二月十五日、日本政府に対し、いわゆる「神道指令」(国家神道の禁止と政教分離を徹底する覚書)を出し、その中で「大束亜戦争」や「八紘一宇」といった用語を禁じました。マスユミだけでなく、公の言語空間から「大束亜戦争」という言葉はなくなったのです。
いったい大東亜戦争とはいかなる戦争だったのでしょうか。果たして東京裁判史観に代表されるように一方的な日本の侵略戦争だったのか、帝国主義の時代、世界の列強は利害の対立を力に.訴えて解決することを当然の権利と考えていました。日本が米英に宣戦布告した戦いも、米英の当時の国力を考えれぱ無謀な側面があったにせよ、そうした当時のグローバル・スタンダードに従ったものではなかったのか。と同時に、中国大陸、東南アジアに攻め込んだのは侵略なのか、白人支配からの解放なのか。相手がある戦争で、どちらかが一方的に悪いということは言いえるのか。戦争当事国それぞれに主張があるのは当然です。
もちろん、中国大陸での「不拡大方針」を軍部が無視して戦線拡大に走ったこと、大東亜戦争開戦の翌年から南洋戦線で敗北を続けた戦術、戦略の失敗、結果的に三百万人もの戦没者を出したこと、アジア各国を戦場とし数多の市民を巻き添えにしたこと、さらには終戦前、あろうことか対日参戦間近のスターリンのソ連に和平の仲介を頼んだ愚かしさなど、大束亜戦争について日本が反省すべき点、教訓とすべき点は多々あります。村山富市元首相が語ったように、
「国策の誤り」を指摘することもできるでしょう。「戦争責任」をはっきりさせよ、という声が内外から出るのもよく分かります。
しかし、では国策の誤りとは、戦争責任とは何でしょうか。戦争を始めたことでしょうか。戦争によって多くの犠牲を出したことでしょうか。捕虜虐待や一般市民の殺害などの国際法違反でしょうか。あるいは敗北を喫し、国を滅亡の淵に追いやったことに対する責任でしょうか。そのいずれもだ、ということでしょうか。
私は、"あの戦争"の責任の追及と反省を口にするならば、一つだけ心しておくべき態度があると考えています。それは、いま生きているわれわれは、大束亜戦争が敗北に終わったことを知っているということ、敗北という結果が分かっていて、まるで時間のカンニングペーパーを見て答案を書くような態度で父祖たちの当時の行動を裁いてはならない、という現代に生きる者の自省です。
白身在日韓国人として生まれ育った格闘家の前田日明氏から同じ考えを持っていることを聞かされ、そうしたいまの日本人の態度は「卑怯だ」と言われたとき、私はなんとも言えない思いに駆られました。父祖たちが何に苦悩し、煩悶し、何のためにあのような戦争に突入していったのか。その結果を「アホな戦争」、「白爆戦争」とひとことで括ってしまっていいのか。真摯に、反省や教訓を導き出そうとするならば、多様な角度から事実を知る必要があります。他者が語る"あの戦争"の事実だけでなく、自らの血肉につらなる父祖の戦争として知ること、その苦悩や煩悶を引き受けることから考察を始めなければならない。「太平洋戦争」からは見えてこない"あの戦争"の様相、われわれの父祖は、「大東亜戦争」を戦ったのだという事実を、われわれの歴史から削り取ってはならない。そんな思いから本書を編みました。開戦から六十五年、若い戦後世代にこそ本書を手にとってほしいと思っています。
産経新聞社 「別冊正論」編集長 上島嘉郎
ーー(別冊正論 大東亜戦争 日本の主張)
「大東亜戦争」とあの戦争のことを呼ぶだけで右翼扱いされる現状というのは、異常な空気に未だに支配されているんですな。
祖父たちの潔さ、恨みを次の世代に残さないように黙して語らず来たこと、それが日本の足枷になるとは、思ってもみなかったことでしょう。
日本の立場、主張を日本人が言わないで誰が言ってくれるのか。日本人が言うしかないわけです。