日本の国旗・国歌の歴史は長い
3-3:歴史/国旗/国歌や National identityに関して
このところ、日本の学生の政治に対する関心の低さがしばしば指摘されています。 しかし、政治に関心を持つには、ある程度自国の歴史の流れがつかめなければ、全体の動きが把握できない事は明らかです。 米国では十数年前まで「アメリカ史」が大学の一般教養の必修科目でした。 現在でも専攻に関係なく「アメリカ史」を履修する学生が多いのが実情です。
日本では「愛国心」というだけで偏向とされがちで、健全な国家観や日本人像を構築しにくい社会や教育の現状があります。 そこでNational Identityに関連する質問として国旗等に対する思いの日米間の相違を探ったところ、見事な対比を見ることができました。
一言で述べるならば、日本人の歴史への関心度はお粗末なほど低いということです。 高校生の間では関心がない者が7割近くになり、大学でも半数以上のものが関心を持っていません。 米国人の関心度は日本のざっと二倍で、高校生の段階から高い関心があるのは、受験がないことの恩恵かもしれません。 日本では大卒以上学歴取得希望の者が、歴史に関心がないとする比率が高く、なお一層事態が憂慮されます。
神話の時代から、自然の恵みの中心として太陽神・天照大御神をいただき、「日出ずる国」、「日の本」として、自己認識してきた日本人にとって、日の丸はきわめて親しみやすいシンボルであった。我が国の長い歴史の中で、自然に生まれ、国民生活の中に定着してきた。
文献に記された最初の日の丸は、今から1300年前、大宝元(701)年文武天皇の時代に、朝廷の正月元旦の行事で用いられた「日像」だと言われている。
1160年代には、源義朝や義家が日の丸の軍扇を愛用していた。平家物語には、屋島の合戦(元暦2年、1185)で、源氏方の弓の名手・那須与一が平家の女房の差し出した「皆紅(みなくれない)に日出だしたる扇」を射る場面が描かれている。ただし、日の丸を射るのは恐れおおいと、与一は扇の要から一寸ほど上を見事に射切ったのである。
1318年に即位され、南朝を樹立された後醍醐天皇は、武将に白地に赤の日の丸を与えており、吉野の笠置山への行幸で使われた縦長の日の丸は今も現存している。
足利尊氏は、瀬戸内海に進撃する自分の船に、日の丸を描いた錦の旗を立てている。戦国時代では、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗らも、家紋とともに日の丸の小旗や大旗を使っていた。[3]
1600年頃にタイ・アユタヤ王朝下で数千人規模の日本人町が建設されていたが、そこで組織された日本人義勇軍が日の丸を掲げて行進をしている姿が、寺院の壁画として残されていた。[4]
江戸時代に入り、鎖国政策がとられると、東南アジア向けの貿易船は、幕府の公認を受けて日の丸を立てて航海していた。
幕末に外国船が盛んに来航するようになると、自国の船の印が必要となり、幕府の高官が源氏を表す中黒(白地に黒の横一文字)を推薦したのに対し、当時の水戸藩主・徳川斉昭が、「長い間日本人が用いてきた日の丸こそ日本を代表するに相応しい」と反論し、ここに日の丸が「日本総船印」として採用された。[1]
日の丸が近代外交の正式な舞台に登場したのは、万延元(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節団が米国に渡った時であろう。米国の圧力の下で結んだ不平等条約であったが、幕府は対等の独立国としての威儀を示そうと、米国での批准書交換を提案した。
勝海舟率いる咸臨丸は、日の丸を掲げて、初の日本人操艦による最初の太平洋横断に成功し、サンフランシスコに入港した。使節団がニューヨークのブロードウェイを行進した時は、市民は窓ごとに星条旗と日の丸を掲げて歓迎した。[1]