「現人神」の創作者-加藤玄智
引用ーー
~昭和の「現人神」論に通じる思想も姿を現しはじめた。私の見るところ、その先駆けとなった人物は、浄土真宗の信仰を持ち、東京帝国大学で宗教学を教えていた加藤玄智である。彼は、日露戦争以降に神道を研究する外国人が現れてきたのに刺激されて神道研究を始め、その成果を明治四十五年に『我述国体思想の本義』と題して刊行した。
この本の中で彼はまず東京帝国大学名誉教授で日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンが明治四十四年に発表した「新宗教の発明」という論文を取り上げて、"外国人研究者には日本の真相が十分にわからないために、誤解がひろ鑓る恐れがあり、したがって日本人白身が有りのままの日本を外国にも伝える必要がある"とその執筆動機を語っている。加藤が問題視した論文に第三章 「教育勅語」の発布から第一次世界大戦のころまでおいてチェンバレンは、日本人の天皇崇拝などというものは、欧化主義の流行によって国民の愛国心が失われることを恐れた政府が、明治二十年代以降に生み出した新しい宗教にすぎないと断じている(『日本事物誌1』平凡社東洋文庫、所収)。
これに対して加藤は、天皇崇拝の由来の古さを指摘し、宗教学的観点からその意義を解説して、チェンバレンの議論を批判しているのだか、その中に、これまでの論者には見られなかった議論が登場してきている。加藤はまず、「日本人は皆神の子」「天皇陛下は殊に秀でて神の御子孫」という従来の説を一応は肯定しつつも、「否代々の天皇陛下は、一方から申しますれば、天神の神胤、即ち神の子と申すことが出来ますけれども、亦他方からは、陛下のことを明神(あきつかみ)とも亦現人神(あらひとがみ)とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ白身であるといふことであります」(『我が国体思想の本義』五九ー六〇頁)と、「神孫」論と「現人神」論との区別を提唱した。そして、古来天皇は「至尊し「主上」「上御一入」と呼ばれており、ここから「明らかにバイブルにおける神の位置を日本では天皇陛下が取り給ふて居つた」(同六一貢)と言い、「日本に於きましては天皇陛下に対し奉る時は吾々臣民は絶対的服従でありますが、西洋に於きましては、歴史的に神に対して絶対的服従を要求されて居ることになつて居ります」
(同:五頁)と主張した。
絶対神的天皇論の登場である。彼は、この日本入の精神の在り方を「天皇教」と呼び、「西洋にあつては即ち神、日本にあつては天皇陛下、西洋にあつては宗教上の信仰、日本にあつては忠孝一本、西洋にあつては基督教、日本にあつては天皇教」(同一八五頁)という対応図式を提起している。
加藤はこれ以後多くの著書を通じて、この考えを国内に広めていった。そればかりでなく、英文の著書も刊行して海外へも宣伝した。特に彼の議論が大束亜戦争中のアメリカ人の天皇観、神道観に与えた影響は大きかった。というのも、アメリカのもっとも辛辣な神道の批判家であって、アメリカ人の通説的な神道観を形成したと言われるD・C.ホルトムは、加藤の影響を強く受けた人物だったからである。ホルトムはその著書“Modern Japan and Shinto Nationalism”(一九四三年)の中で、加藤を「近代神道復興の解説者としてもつともよく知られている」人物であると紹介した上で、加藤の説を次のように引用している。「博士は『中国入の中で天と上帝が占める地位、あるいはユダヤ人の中でエホヴアの神が占める地位は、日本では古くから天皇が持つておられた』と述べ、また『天皇は昔から「あきつ神」(眼に見える神)、「あらひと神」(人間の姿をした神)および「あらみ神」(人間の姿をした大神)と呼ばれて来た』といつている」(深澤長太郎訳『日本と天皇と神道』二十一頁
第二部で扱うが、このホルトムの著述の影響は、アメリカ国内にとどまらず、敗戦後の日本にも及んでいる。
〝西洋人のゴッドに対する信仰にしても歴史事実に照らせば疑惑を生むべき要素がさまざまある。それにもかかわらず、彼らは神の存在を否定せず、神への忠誠心を維持している。だから、その神と天皇が同じようなものだと説明すれば、さすがに西洋人も合理主義を持ち出して日本人の天皇に対する忠誠心を批判するのは難しかろう"というのが加藤の思惑だったのかもしれない。とすれば、どうもそれは当てが外れたようで、白らの不合理性を省みて日本批判を遠慮するのではなく、むしろ日本人は人間を絶対神と同一視するとんでもない民族だとの驚きをまじえた嫌悪感を西洋人の間に広めてしまったようだ。加藤は今日では忘れ去られてしまった学者の一人なのだが、一学者の主張が日米関係に及ぼした影響の大きさを思うとき、私は学問という営みの重大さに粛然たる思いを禁じ得ない。
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(「現人神」「国家神道」という幻想 新田均)