マッカーサーライン3
(5)サンフランシスコで、敗戦国日本と戦勝国四十八カ国が平和条約に署名した。日本と世界が第二次世界大戦の悪夢を教訓とし、平和的な運命共同体を造る努力をしますという約束である。これで日本の「戦争責任・犯罪」の謝罪も終結した。ソ連(現ロシア)と中国は、平和条約会議への出席を拒否した。未だに、ロシアと日本の間には平和条約がない。
サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が敵軍占領から開放され、独立国家になるのは八ヵ月後。吉田首相が帰ってきた日本は、まだ米軍による占領下である。この最後の八ヶ月の占領期間中、鮭独占を決定的にする。
(6)サンフランシスコだの書名から四十日後、(1951年十月十六日)、日本政府はアメリカとカナダの漁業関係者および国務省(アメリカ)と外務省(カナダ)の高官たちを東京へ招待した。北太平洋の鮭につき話し合い交渉をするためだ。鮭だけでなく、畳二枚ほどの大きさがある「大ヒョウ」(巨大なヒラメ)も貴重な資源であるので、アメリカに独占される。日本人が大好きなカニ、アラスカの「キング・カニ」は交渉の対象にはならなかった。当時、アメリカの漁師がこのカニを商業用に捕っていなかったからだ。
(7)子供だましか、徹底的な侮辱か、信じられないことが占領末期に起こる。マッカーサーの後任、リッジウェイ最高司令官が日本に「特別独立」を与えた。占領下の日本がアメリカとカナダと「自由に・対等に抗議・交渉ができるように」との考慮からである。だが、特別独立は交渉機関の四十日間だけ。まもなく「独立」することになっている日本が、後になって「北太平洋鮭条約は米軍に銃を突きつけられて同意させられた不平等条約である」と言わせないためである。
十二月十四日、東京で日本・アメリカ・カナダは「鮭条約」(正式の名は長く、「鮭」と言う言葉は入っていない)に署名した。同時に、日本の特別独立は占領軍に取り上げられた。
(8)1952年四月二十五日、マッカーサー・ラインが解かれる。三日後(四月二十八二日)平和条約が発効し、占領が終わり、日本は独立国になった。
マッカーサーライン4につづく
サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が敵軍占領から開放され、独立国家になるのは八ヵ月後。吉田首相が帰ってきた日本は、まだ米軍による占領下である。この最後の八ヶ月の占領期間中、鮭独占を決定的にする。
(6)サンフランシスコだの書名から四十日後、(1951年十月十六日)、日本政府はアメリカとカナダの漁業関係者および国務省(アメリカ)と外務省(カナダ)の高官たちを東京へ招待した。北太平洋の鮭につき話し合い交渉をするためだ。鮭だけでなく、畳二枚ほどの大きさがある「大ヒョウ」(巨大なヒラメ)も貴重な資源であるので、アメリカに独占される。日本人が大好きなカニ、アラスカの「キング・カニ」は交渉の対象にはならなかった。当時、アメリカの漁師がこのカニを商業用に捕っていなかったからだ。
(7)子供だましか、徹底的な侮辱か、信じられないことが占領末期に起こる。マッカーサーの後任、リッジウェイ最高司令官が日本に「特別独立」を与えた。占領下の日本がアメリカとカナダと「自由に・対等に抗議・交渉ができるように」との考慮からである。だが、特別独立は交渉機関の四十日間だけ。まもなく「独立」することになっている日本が、後になって「北太平洋鮭条約は米軍に銃を突きつけられて同意させられた不平等条約である」と言わせないためである。
十二月十四日、東京で日本・アメリカ・カナダは「鮭条約」(正式の名は長く、「鮭」と言う言葉は入っていない)に署名した。同時に、日本の特別独立は占領軍に取り上げられた。
(8)1952年四月二十五日、マッカーサー・ラインが解かれる。三日後(四月二十八二日)平和条約が発効し、占領が終わり、日本は独立国になった。
マッカーサーライン4につづく