マッカーサー・ライン1 | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

マッカーサー・ライン1

引用(日米魂力戦 負けるなニッポン 西鋭夫)よりーー
 日本敗戦で、アメリカは戦前からもめていたアラスカ鮭に決着をつける。
 日本降伏のわずか二十六日後、1945(昭和二十)年九月二十八日、トルーマン大統領は「米国大陸棚他国の漁業
活動は許さない」と宣言をする。飢えた敗戦国日本が、鮭漁船をアラスカへ送り込むかもしれないとの憶測から先手を打ったのだ。さらに、同年十一月十三日、トルーマン大統領は、東京に君臨していたマッカーサー元帥に極秘電報を送り、「日本の漁船を日本列島の近海から出してはいけない」、日本列島の周りに「マッカーサー・ライン」(檻)を張り巡らし、そのせまい内側に「日本漁船を封じ込めろ」と命令を下した。「アラスカの貴重な鮭資源を守るためだ」と明言した。
 食料が極度に不足していた日本は、「マッカーサー・ライン」の内で魚を捕りすぎ、アメリカから食料をもらい
ながら乞食同然の生活に落ちていった。マッカーサー・ラインの外へ出て漁をしようとしても、怖い米海軍の監視船と偵察機が目を光らせている。違反した日本の船は「元帥の命令に背いた」という重罪で船を没収されるか沈められる。
 マッカーサー・ラインが解除されたのは、日本占領が終わった1952年四月二十八日(サンフランシスコ平和条約
画が発効した日)のわずか三日前、四月二十五日である。これで、日本の漁船が北太平洋の鮭漁を自由に操業できるようになったのか。そんな甘い日米関係は一度もない。これからもない。日本漁船を封じ込むため、米政府はまた先手を打っていた。今度は「国際条約」という美しい名目で、日本を北太平洋の鮭漁から完全に閉め出す策略に出た。次の順序で、日本は公開である北太平洋の鮭漁から完璧にはずされた。
マッカーサーライン2につづく