漢文は日本語教育のひとつ | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

漢文は日本語教育のひとつ

引用ーー

昔は寺子屋などで漢文を読ませたじゃないかと指摘する方がいる。しかし、漢文を読むことは、実は国語教育なんです。「論語」にしても「子曰」を音読みはしません。日本語で「しのたまわく」と発音する。「有胞自遠方来」は「ともあり、遠方よりきたる」とつづける。中国語の発音はせず、すべて日本語で読んでいますから、これは日本語教育なんです。 江戸時代の一流の漢学者、例えば伊藤仁斎や山鹿素行などでも、彼らは原則としてチャイニーズ・カンパセーションはできませんでした。シナ語会話ができるのは、長崎の貿易商人など一部の人間です。 明治維新後でも、元勲たちは漢文教育を受けた人たちばかりでしたから、漢文自体はかけました。清国の要人とは会話ではなく、ほぼ筆談でコミュニケーションが可能だった。漂流した沖縄の漁師殺害の交渉のため北京に出かけた大久保利通は、李鴻章と筆談して賠償金をかちとったりしている。 (略)そういう例は外国にもありました。それはルネサンス以後に、ギリシア語会話を学習した学者たちです。彼らはギリシア語会話なんてできませんでしたが、ご存知の通りアリストテレスなどの著作は熱心に読まれ研究されてきました。 (略)正確さを身につけている日本人 先ほど漢文は、日本語教育だといいましたが、漢文はシナ人から習う必要はありません。日本人から習ったほうがずっと正確です。小堀桂一郎氏(評論家)から聞いた話ですが、東大に留学しているシナ人の学生が、来日して日本語の注釈や説明などを読んではじめて「論語」の意味がわかったというらしい。向こうでは、日本のように返り点の類がなく、いわゆる「白文」ですから、ただ書いてあるままに読んでしまっていて、結果としてなんとなく文章を感じ取って、それで理解していると思っていたそうです。 ですが、日本では漢文の一文一文について分析に分析を重ねます。それが、返り点に反映されますから、少しもごまかせない。江戸時代には、どのように返り点をつけるのか、生徒もよく見ていて、先生が間違いでもすると、すぐに指摘されたりした。非常に正確に読むという精神が根付いているんです。 こういう読み方は韓国にもないし、シナにもない。シナでは、古典は読むといわないで「打点(=点を打つ)」という言い方もします。古典の文章は、どこで切ったらいいのか正確にはわかっていないので、首をかしげながら、ここで点を打とうとか、ここで切るべきだなどと、人によってまちまちに解釈しているんです。しかし日本では、徹底的に学者が研究して、返り点をつけていて揺るがない。間違えがないように懇切丁寧に読んでいる。そういう伝統が日本にはある。

ーー(WILL 6月号 P190)  



 日本語の語彙が豊富じゃないと英語を覚えたとしても、脳内でまず浮かぶ言葉は母語だろうから、日本語もまともにしゃべれない人は英語が話せたとしても、半端なものになってしまう。

 「チベット語になった「坊ちゃん」」と言う本では、チベット語と日本語で上に近いことをやっている。

 外国語を翻訳することで同時に日本語を勉強・再認識することができると。

 正直私、文法とかまったく覚えてない。文章を書くことができない。論理的にまとめて書くとか不可能。文章力がないっていうのは話す能力にも関係あるな。頭の中で整理して喋るとかってできないもん。カタコトの日本語しか喋られないっつーのは情けない。なんとかしたいもんです。


 最近小学生の英語の時間を増やそうとしているようですがまだ早いんじゃないですか? 国語の時間を増やすとか、書道の時間を増やすとかしたほうがいいと思う。