理学療法師さんに着いて歩き病院の最上階へ。
そこにリハビリ室があった。
大きな窓が2方角で2面繋がっている。
東と南に外の景色が広がり素晴らしい。
よく晴れた天気もあって、真冬の澄んだ青空と低めの太陽が実に眩しい。
そこにはリハビリに使用するバイクやウオーキングマシンが大開口に向かって並んでいる。
一瞬自分が麻痺のある体であることを忘れさせてくれた。
手術前に居た部屋は同じ東向きの景色だったが、階が高ければこうも違うものかと思えた。
上から見下ろす景色に世間はいつもの日常を送っている。
自分は手術を受け脳梗塞になり今リハビリ室に居る。
これも日常か。
世間的にはあってないような、どこの誰かも分からない人間の小さな出来事か。
どの瞬間も世界中で様々なことが起きている。
自分はほんの埃のような存在だ。
そして同時に、この脳梗塞や麻痺も小さな小さな出来事だと、ほんの一瞬思えた。
理学療法師さんに案内されたリハビリ室の窓に面したデスクに座った。
デスクの上には何も置かれていない。
そこにタオルを持って来て、これで机の上を拭く動きをしてみましょう、と。
自分は麻痺した左手をデスクの上に置かれたタオルに手をのせてみた。
コントロールが効きにくい左手は肘から吊り上げられるような動きになる。
とてもぎこちなく不恰好に違いない。
力を入れたつもりの手の動きは、とても力が無いように見えるだろう。
手のひらも自由には動かない。
それでもなんとかタオルに手を乗せ動かしてみる。
とても自分の手とは思えない。
拭くというよりは滑らせているだけで、とても下向きに力をいれられない。
それでも理学療法師さんは、いいですね、そのまま続けていきましょう、大丈夫ですよ、と上手に励ましてくれる。
とはいえ、とても自分の腕とは思えないこの感覚。
それでも他の人の麻痺の程度とく比べれば自分のはマシな方なのか。
確かに全く動かせない人も知っている。
そういう人に比べれは自分はまだラッキーなのか。
色んな思いが流れながら動きを繰り返す。
理学療法師さんの話によると、この病院のリハビリは、あくまで心臓手術後の家に帰り生活できるようにするもので、脳卒中で起きた麻痺をリハビリする為の部署ではないという。
なのでできる事は限られており、専門の病院へ転院してリハビリする事を勧められた。
言われてみればそうだろう。
ここでリハビリに励んでいる患者さんは皆下半身の運動強化に励んでいて、スタッフも限られている感じだ。
これまで見たことも無いが、本気で麻痺をリハビリする環境ではないようだ。
それなら自分はどうなるのか。
少し見捨てられたような気持ちにもなった。
でも、その理学療法師さんはここでも出来るリハビリをやっていきましょう、初期のリハビリが大事で出来るだけサポートします、といってくれた。
続いて理学療法師さんは目の前で白い用紙にペンで五角形と六角形が一部重なった図を書いた。
これを同じように書いてみて下さい、と。
多くは右利きで、ペンを持つのは元々右利きだ。
難なく右手でペンを持ち用紙の上に右手を置く。
そして書いてもらった図を見て書こうとするが書けない。
書けないのは手が動かないのではなく目がよく見えない。
より正しく表現するとモノのカタチが捉えられない。
四角形に見える事はないが、五角形か六角形かが判らない。
正しく見えないとこれくらいの図形も書けないのか。
自分は絵を描くのが得意で学生時代、デッサンや平面構成に明け暮れた。
この絵が描けるというのはモノをよく見る事ができるという事だ。
よく見ないと描けないのだ。
その見る行為が出来ない。
何が書かれているのか理解できない。
結局、指でなぞっても判らなかった。
これには愕然とした。
身の回りの景色は大雑把にはどういうものが見えているかは分かっているつもりだ。
病室でもなんとか入院生活が出来ている。
が、モノを正しく見る事ができていない。
そういえば一般病棟に移ってからは、まともにスマホを観ていない。
妻からかかってくる電話になんとか出られるが、ホーム画面の並んだアイコンを見てもよく分からないのだ。
その事を理学療法師さんに伝えると、どんなふうに見えてるんですか、と尋ねられた。
自分の感覚で言うとジグソーパズルをバンって叩いて少し絵が崩れたような感じです、と答えた。
スマホのホーム画面がそんなふうに見え、とてもブラウザや記事、LINEも見れる状態ではなかった。
とてもとてもおかしな見え方で自分でもどんな世界にいるのかというような感覚だ。
とても人に説明出来ない見え方に自分が困惑した。
じぶんはどうなるのか、もう元には戻れないのか、少しでも改善するのか恐怖に襲われた。
それでも理学療法師さんは、今壊れた脳神経細胞の周りの細胞が代わりの電気経路のようなものをつくっていっているので、今よりはもっと良くなります。動かなかった手や見えなかった目も見えてきているので続けてリハビリを頑張りましょう、と。前向きになる話をしてくれた。
脳卒中による麻痺のリハビリを、まさか自分が、この歳で・・・・・
とても現実とは思えない一瞬、一瞬をこの病院で入院生活を送っている。
突きつけられた現実を今は無防備に受けるだけの自分に成す術もない思いだった。
悪夢なら早く覚めてほしい。
麻痺を自覚する度に、そう考える自分がとても辛くしんどい。
こうして始めてのリハビリは3、40分程度で終えた。
リハビリ室から病室まで理学療法師さんが送ってくれ、自分が目の不自由でおぼつかない歩きを気遣ってくれた。
また明日お迎えにきますので、と、とても丁寧に対応してくれる理学療法師さんに信頼を置けずにいる自分が居た。