ブログネタ:どこでもドアを一回だけ使えるとしたらどこへ行く? 参加中
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子供の頃、どこでもドアが欲しくて欲しくて堪らなかった時期があります。

あの頃は、まだ三輪車も満足に乗りこなせなくて、

自分の“セカイ”は、自分で歩いて行くことが出来る範囲に限られていました。

親に車で連れて行ってもらう場所は“チガウセカイ”であり、
自分の“セカイ”ではありませんでした。

そんな時、テレビで幾度と無く目にする<どこでもドア>は、
そんな自分の“セカイ”を広げる、画期的な道具に見えました。

『アレを使えば、知らない所に行ける』
『アレがあれば、まだ見ぬ“何か”を知ることが出来る』
知的探究心を刺激され、そんなことを思うのは、
子供としては当然のことなのではないでしょうか?

しかし、そんな思いは、自分の“セカイ”が広がるに連れ、薄れて行きます。

あんなに苦労していた三輪車がいとも簡単に乗りこなせる様になり、
絶対に外せないと思っていた自転車の補助輪がいつの間にか取れ、
興味本位で持ってしまったバイクで何度か痛い目を見つつ、
親にねだって買ってもらった自動車が乗れる様になると、
最早自分の“セカイ”は、ある程度の限度を持ってしまっています。

更にその“限度”は、バスや汽車、電車、新幹線、船、飛行機などの乗り物によって
突破され、『どこにも行けない所などない』と錯覚させる様な状態にまでなります。

そんな状態では、最早そんな自分の“セカイ”を広げる<どこでもドア>は、
不要な存在として、忘れ去られていくだけとなってしまいます。

ですが、ヒトは、それでも尚、<どこでもドア>に惹かれます。

その理由は、<時間>ではないでしょうか。

先述した様に、今や人間はどこへでも自分で行くことが出来ます。

しかし、その代償として、(一般的に)多くの時間を消費します。
その時間は、有限であり、私たちにとってかけがえの無いものです。

その為、同じ“行きたい場所に行く”という目的を果たすことが出来るならば、
ヒトは自分で行くよりも<どこでもドア>を使おうと考えます。

今尚ヒトが、老若男女問わず、<どこでもドア>に魅了される理由は、
そこにあるのではではないでしょうか。



最後になりましたが、

私は<どこでもドア>が一回だけ使えるならば、
愛するヒトに『(どうしても)逢いたい・・・』と言われた時に、使いたいと思います。
それで、・・充分です。(微笑