先日の体験の方々のプレートなど、順次焼いていますので、少々お待ちくださいませ。
こちらは、唐草蝶転写紙を使っての花器です。
焼くと本当に素敵な色になりました。ご要望があったので、これにプリザーブドフラワーをアレンジしようと思います。
私のブログには、よく故郷の記事を書いているので、てっきり山口でサロンを開いているかと錯覚なさる方もいらっしゃるようで、紛らわしくてすみません。
もちろん、ご要望があれば山口でも!とも思いますが、今は子育て中の身ですので、出張レッスンは栃木県の近場だけで行っております。
下関や山口からわざわざお問合せいただいた方々。山口やお隣の福岡県にも素敵なサロンが沢山ありますので、是非一度ポーセラーツの楽しさを体験なさってくださいね
さて、下関といえば、ふぐが有名ですので、その話を少し。
下関には「春帆楼しゅんぱんろう」という有名なふぐ料理のお店があります。
ここからは、本からの抜粋です。
伊藤博文が愛でて「春帆楼」と命名した。店にかかっている見事な扇額の書は、山口県が生んだ著名な画家・松林桂月の揮毫(きごう)である。
春帆楼が明治28年、日清戦争後の講和条約が締結された場所であることは周知のことであるが、ここを訪れたのは、山田奨学会の創設者「山田きくゑ」さんのことを調べるためであった。
山田さんは講和条約締結の2年後、姫路生まれである。幼くして両親とともに下関に移り13歳から春帆楼に奉公に出た。
目から鼻に抜けるような利発さと気配りのよさで、顧客の信用は絶大。当時の長州閥の大物は、山口に帰ると春帆楼に宿泊するのが常で、その人たちにも可愛がられた。
大正12年、26歳で下関阿弥陀時町に店を構えるまでになったが、昭和2年、30歳のとき一大決心して銀座に、ふぐ料理専門の「山田屋」を開業。東京で最古参のふぐ料理の店である。山口県出身の政財界有力者の後援もあり、大繁盛したといわれる。
昭和37年に店を閉じた。理由は、このころになると材料のふぐを外界ものに頼らざるを得なくなったからである。「ふぐは瀬戸内、徳山沖のものに限る」というのが、山田さんの信念で、繁盛している店を閉めたのである。
同時に、全財産を山口県出身学生の育英のために投じた。
後年、山田奨学会の会合で対次のように述懐している。
「・・・全財産を投じて山田育英会を創立したいと思い、お国の久原房之助様をはじめ、松林桂月、岩田宙造、岸信介、佐藤栄作様などの偉い諸先生がたにお世話をいただきました」
平成7年、98歳で亡くなられるまで、務めて会合などに出席し、学生と会話を交わすのを楽しみにしていたのである。そして、山口弁で言うのが常であった。
「勉強して偉うなりさいや」
彼女の想いが伝わってくる言葉ではないか。
(防長倶楽部 山田奨学会役員 林文二さんの手記より)
自分の子供達の教育だけでも、うんうん・・・困ったなと言っている私ですが、日本の未来を担う若者達へ全財産を投じた山田さんには、本当に敬意を表したいです。
今日も一日頑張ります!
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