再度投稿!日中戦争・戦記・ある兵士の『思い出』特集② | 真実の空模様

真実の空模様

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(続き)

村長らしき者が笑顔で、
『トンシィー』(ご苦労様の意)と言って近寄って来た。

村長か?分からない。

銃で威嚇して全員を手まね身振りで一カ所に集め、後ろ向きになるように並ばせた。

その時だった、背後に殺気を感じ全身が硬直した。

雪を踏み締める足音、曇天ゆえに影はない。

えーい、ままよ。振り向き様に一発、と思った。

引き金に指を宛てがい、足音に耳を澄まし、振り返った瞬間だった、


援兵の姿が目に入った。


私は安心感からかペタリと雪の上に座り込む位に力が抜けた。

先兵のA伍長が走り寄り、『大丈夫だったか』と小声で労ってくれた。
中隊長に報告へ行けとの指示で、後続を見ると中隊長以下の本隊が駆け付けてくれた。

私は急いで中隊長の傍に進み、『報告、T上等兵異常ありません、便衣(兵)はこの部落に逃げ、、、』
まで言うと頭の上から
『バカヤロー』
と言う声が飛んできた。

『命はいらんのか』と今度は普通の声で、

『無茶をするんじゃない、一人で敵中に突っ込んだりして、。』と。中隊長のお叱りはそれで終わりだ。

その頃、部落民の数は約60人は集められていた。
全員靴下を調べた結果、何食わぬ顔をして住民の中に紛れ込んでいた便衣(兵)は難無く捕らえることができた。彼らを取り調べた結果、昨日の敵部隊に関する重要な情報を得ることができたわけである。

これは私が野戦に来て約一年目の真冬のほんの些細な出来事である。が尊い教訓でもあった。即ち、血の気にはやり、一人で先陣を競うことの危険と愚かしさを思い知らされたし、また、他に迷惑を及ぼすことであることを教えられた。

こんな失敗や苦しいこと、そして悲しいことの試練を繰り返しながら、私達は徐々に精鋭なる日本軍の戦闘要員として成長して行くのであった。


(つづく)



記:真正大和撫子

(続き)

こんな失敗や苦しいこと、そして悲しいことの試練を繰り返しながら、私達は徐々に精鋭なる日本軍の戦闘要員として成長して行くのであった。

ニコニコ(撫子メモ)
真実の空模様-120121_135826.jpg

上等兵になったTさんの写真です。彼には新たな任務が付与されます。それは記録、撮影と言った仕事で、懸命に任務を遂行します。


●新たな任務・連隊本部と共に

・撮影機を担いで


大陸の春は短い。
長い冬の雪解けが始まると、もうその下には麦の青が待っていて瞬く間に野原一面が緑の絨毯で敷き詰められてゆく。
点在する村々を桃の花は薄紅に、杏子の花は真っ白にそれぞれ染めてゆく。それに合わせるかのように、梨、菜の花なども一斉に咲きはじめる。それらの花の間を縫うように鶏の声は騒がしく、馬の声は物悲しく、雲雀の声は高らかに流れている。
このような風景を桃源郷というのだろうか?しかし、それも束の間、一足飛びに夏が来る。麦は日ごとに伸び青みが黄色に変わり、やがて茶褐色に染みいる頃、村々では年に一度の収穫が始まる。作物は麦のみで一毛作だった。

時はまさに昭和16年5月上旬、連隊本部の点呼が終わると給与係のO曹長がニヤニヤ笑いながら、『朝食後、俸給を渡す』と達した。行ってみると三ヶ月分の給料先渡しで上等兵の私で26円40銭也である。
そうら来た。これは向こう三ヶ月間、作戦に出動するぞという無言の予告命令であった。
正午過ぎに全員集合がかかり、人事係のS准尉から、ちょうど今、作戦の編成が達せられ、にわかに慌ただしくなった。

私は戦地に来て一年有余、黄河の河畔の第一戦陣地で日夜、渡河来襲する敵と戦いながら初年兵教育係助手としての任務も終わり、3月下旬に中隊人事係のK曹長に呼ばれて連隊本部勤務になっていた。

その任務とは当時の現役兵では珍しく、私の写真技術を認められたわけで、、

一、作戦間及び駐留時の連隊歴史の作成

ニ、連隊正面である黄河南岸の敵陣地の連続写真撮影(兵要地誌作成)

三、写真並に映画、音楽により住民に対する宣伝治安活動

これら三つが私の任務であった。

装備としては、次のものが支給された。

一、16㍉撮影機・百㍉望遠レンズ付き

二、16㍉映写機・米国製1キロワットホームライト

三、カメラ・ドイツ製イコンタンシクス

四、兵器・十四年式拳銃一丁、手榴弾×2

また作戦を容易にするため背嚢(はいのう:食糧被服)を持つ苦力一名の使用が認められ、行動は連隊長副官の直接命令(許可)以外、他の如何なる将校といえども私の行動の援護はしても妨げてはならないと言うことで、事後、満期となった昭和18年10月の現役満期内地帰還の大命が下るまで任務が続いた。

ニコニコ(撫子解説)
背嚢(はいのう):リュックサックみたいなもの。
労力:アシスタントみたいなもの。


被服は全て新品と交換され弾薬食糧で重く膨らんだ背嚢を背負った。
5月6日夕方、軍働くを捧じて幾台かのトラックに分乗して、戦闘帽につけた防暑の垂布をなびかせながら夏県県城まで前進していた。夏県では友軍の守備隊が準備してくれた一升瓶二本ずつの飲料水を受け取り、それぞれの背嚢(はいのう)に縛り付け、とっぷりと暮れた夏県城の東門を後に中條山脈に向かって登り始めた。夜半頃、中腹の洞窟部落に到着、ここで明日午後の攻撃開始の刻を待つわけである。

夜の白みかける頃までには皇軍の大部隊は何処に影を潜めてか、それぞれの場所に着き配置完了し時折百姓姿に扮した警戒兵がのんびりとした姿を見せるだけで何時もと変わらぬのどかな山村風景である。

嵐の前の静けさというべきか、兵隊達はよく眠る。
洞窟にいるのは連隊本部の限られたごく一部で他の部隊は岩陰や木陰、段々畑の片隅等、頂上の支那軍陣地に対して巧にあらゆる遮蔽物を利用しながら皆ぐっすり眠っている。

こうして丸一日中、攻撃開始の時期を待つわけである。もちろん、火は禁じられているので炊事は出来ず、時間が来れば飯盒(はんごう)の飯を食い、喉が渇けば、瓶の水を飲む。出発の時は、瓶は置いて行くことになっている。午後四時頃、陽が陰り西の空が暗くなって少し風が出てきた。それが次第に強くなって少し風が出てきた。強さを増し砂塵を交えて吹き上げ始めた。誰かが『神風だ』とつぶやいた。攻撃開始の時刻は近い。風は益々強く山頂の敵陣に吹き付けている。
これは北支那大陸特有の季節風で蒙古ゴビ砂漠の砂を巻き上げ、時として黄海、東シナ海を超えて日本まで届くと言われている「黄砂」である。

午後6時30分、連隊長のY大佐は副官のW大尉と時間を確かめると軍旗に敬礼をして黙って前進を始めた。遂に作戦開始の時がきたのだ。


(つづく)


記:真正大和撫子