再度投稿!日中戦争・戦記・ある兵士の『思い出』特集① | 真実の空模様

真実の空模様

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大分市のTMさん。(92才)は日中戦争へ出征した体験をまとめて「思い出」と題する本を百冊作ったと昭和63年の大分の新聞に紹介されています。
この本は悲惨な戦いの模様のほか、捕虜にした中国人少年兵との触れ合いなどが約50点の貴重な写真とともに掲載されているもの。
Tさんは、昭和15年に北支那、現在の中国山西省へ遠征したといいます。本の内容は、この間に経験した様々な出来事で、特に捕虜となった敵の少年兵(12才)を日本人の情で救い、家族までも面倒をみたという記録がありました。

私は、先日、この本に出会い、以前より増して南京事件の内容が捏造であったことや日本人は絶対に虐待をしていない、そんなことの出来る民族ではないことを猛烈に確信したのです。

文献は大変貴重なもので友人を経由して。御存命ておられるご本人の承諾を得て複製、内容を紹介することにしました。
僅か百冊の本はごく親しい友人や親戚に配られましたがご本人の要望により本名は伏せることにしました。また、旧仮名遣いの部分は現在の仮名遣いに変換させていただきます。

ご了承下さい。

更新は努めて毎日したいと思いますが、仕事の都合上隔日になるかもしれません。よろしくお願いします。また、転載・複製はご遠慮下さい。
皆様のご良識の程を。

それでは、貴重な手記を紹介させて頂きます。

●緒戦野戦の試練
昨日から降り出した雪は野も山もすっかり白一色に包んでしまった。
静寂そのもの何一つ見えない。
立哨している歩哨は自らの鼓動すら聞こえそうだ。
こんな時は歩哨は30分で交代させる。この大雪の中を夕方一人の密偵が、ポコポコと『報告、報告』と連呼しながら歩哨線を通過して入って来た。こんな寒い時にもと思いながらも、古兵達はトーチカを囲み馬鹿話に花を咲かせ、私共初年兵は本日最終の武器の手入れと弾薬の点検で点呼前の時を過ごしていた。
午後8時、平日通り点呼ラッパが雪の広野に長く尾を弾いて響きわたると、待ち構えた様に各分隊から勇ましい番号の掛け声が聞こえて来る。これで明朝までは全ての行事は終了するわけである。しかし、分隊長S伍長は今晩の編成を達する。『1時間後に整列、服装は軽装にて外套は着用せず、携帯口糧乾パン2、弾薬小銃各百二十発、りゅう弾各二十発、手りゅう弾各1、以上』と達して部屋を出て行った。密偵の報告によると、はるか西方の山麓の部落に今日の午後から敵が集結し始め、夕方までに約九百名ぐらいの部隊が集まり我々の陣地を攻撃する企図のようである。中隊長F大尉は先手を打って逆にこれを奇襲すべく出動を決意したわけである。陣地の守備には最小必要限度の戦闘員と患者とU准尉を留守隊長に残し出撃することになった。約百名。雪明かりの深夜を静かに出発した。
私は第一小隊第四分隊のりゅう弾筒班である。分隊長はS伍長であった。
何処が道やら畑やら白一色の雪の広野を粛々と進むこと約4時間、途中、我々第一小隊は目的の部落を大きく迂回して南西部の背後から部落を包囲する形で停止し散開して静かに夜明けを待った。その待つ間の寒さと言ったらなんとも言いようがない。喫煙は勿論、火も焚けなず私語さえ禁じられ、じっと積雪の上に伏せて時を待った。
部落は静かに寝静まっている。しかし、九百もの敵がいればいくらなんでも少しはその気配を感ぜられるものだ。それに敵の歩哨も立っている様子がない。
朝になり気が付くと敵はもぬけの殻であった。村長を呼び出し敵の行方を追求したところ、敵はこの部落で小麦と豚二頭を調達して夕食を済まし昨夜8時頃に全員村を離れたとのことであった。時間が経ちすぎているため追跡は諦め部落を検索した。夜は明け風が出てきた。雪は止んでいるが、昨夜から降った雪はカチカチに凍って滑る。
村長は湯を沸かし茶を振る舞い干し柿を積みタバコもすすめてきた。愛嬌を振りまきながら私達に接した。おそらく昨夜の中国軍にもこのようにもてなしたのだろうと思った。
このようなことばかりすれば、村は疲弊する一方であろう。私は部落の南端に立って警備をしながら色々考えた。
『戦争、それは生物がこの世に有る限り絶えないであろう、必要悪であるも、生物に本能と欲望が有る限り時により規模の大小があっても争いがあり戦いがある。従って、戦争を否定することは不可能であろう。もし、そういう人がいたとするならば偽善者ではなかろうか。故郷では、今頃母が、、。』と思い耽っていると、パーンとあたりの静寂を破り銃声が鳴り響いた。

(つづく)



記:真正大和撫子


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(再度投稿ですニコニコチョキ)

大分市のTMさん。(92才)は日中戦争へ出征した体験をまとめて「思い出」と題する本を百冊作りました。
僅か百冊の本はごく親しい友人や親戚に配られましたがご本人の要望により本名は伏せることにしました。また、旧仮名遣いの部分は現在の仮名遣いに変換させていただきます。

ご了承下さい。

更新は努めて毎日したいと思いますが、仕事の都合上隔日になるかもしれません。よろしくお願いします。また、転載・複製はご遠慮下さい。
皆様のご良識の程を。

それでは、貴重な手記を紹介、第二回、させて頂きます。

●緒戦野戦の試練
(続き)
『戦争、それは生物がこの世に有る限り絶えないであろう、必要悪であるも、生物に本能と欲望が有る限り時により規模の大小があっても争いがあり戦いがある。従って、戦争を否定することは不可能であろう。もし、そういう人がいたとするならば偽善者ではなかろうか。故郷では、今頃母が、、。』と思い耽っていると、パーンとあたりの静寂を破り銃声が鳴り響いた。

銃声は数発鳴り響き、急いで私は音方向へ走った。見ると二年兵のK上等兵は首筋から血を流し倒れていた。幸いK上等兵は生きており、私をみるや否やニタリと笑い目線で「そいつ」というように合図した。
便衣(民間人の服)を着た男が倒れていた。近くに寄り引き起こしてみると既に死んでいる。左手にモーゼル拳銃を握りしめたままであった。心臓貫通の即死状態だった。K上等兵の話しによれば部落を検索中に怪しい便衣を着た男を屋外へ連れ出し右腕を掴んで中隊本部まで連行していたところ、その男が左手で自分のズボンに隠し持っていた拳銃を抜きK上等兵の首筋を狙い撃ちしそのまま逃走しようとしたのを、K上等兵は気丈にも膝撃ちで、しかも一発で仕留めたというのである。
自ら仇討ちするなど珍しいことで、しかも幸い彼の傷は余りにも近すぎたため弾力がなく、貫通もせず、急所を外れていたため、後日一ヶ月足らずの入院で元気に中隊に復帰した。

倒れている便衣の男の衣服や所持品等を調べているうち、最後に靴を脱がせて見ると木綿布製の靴下の裏側に白日旗が黒糸で縫われていることがわかった。

即ち、これが便衣隊の印である。


ニコニコ撫子解説:便衣隊とは民間人になりすました敵部隊で日中戦争を困難にした原因とも言われています。ベトナム戦争時のベトコンも同様な戦術を使ったことで知られています。


●逃げる五人の便衣兵を一人で追跡

私は再び元の警戒場所に戻り外部との交通遮断任務に就いた。空を見上げれば、厚くたれこめた雪雲、また降りそうだった。目指した敵は逃げてしまい、今日の討伐はもうこの辺で引き上げとなるだろう。今先程の出来事、K上等兵の沈着な行動、俺だったら果たしてあんな事が出来たであろうか。やがて、想いは故郷の母の面影が頭を過ぎった。さぞ母親は寂しいだろう。元気でいるだろうか。俺が死んだら困り泣くだろう。
その時、また私の瞑想を遮るかのように若い朝鮮人の通訳が走って来た。

通訳『さっき、敵が逃げたよ』
私『数は?』
通訳『五人だよ』
私『服装は?』
通訳『便衣だよ、あちら』通訳は逃げた方向を指差した。
私『よしわかった。俺は追跡するから貴様は本部に急報しろ』

通訳の指差した方向をみやると五人一列に急ぎ足で行く黒服装の男達が見えた。私は一人で躊躇せず雪の斜面を駆け降り追跡した。
敵は私の追跡を意識したのか急ぎ足が小走りになり、距離は約五百㍍になった。私は途中走りながら一度振り返った。今まで私が立哨していたところに友軍が約10名、盛んに手を振っている。『急げ!』と言っているように見えた。実は後に聞いたら『止れ!』との合図だったらしいが・。私は更に歩度を伸ばして追い続けた。約千㍍くらいのところに次の部落らしい木森が見えてきた。敵はその方向へ向かっているらしい。私は走りながら『しまった』と密かに後悔した。敵は五人、私は一人である。目指す部落には他の敵もいるかもしれない。今日がいよいよ一巻の終わりになるのか、五人の敵を追い私は雪の中條山脈を鮮血に染めて名誉の死か。21才の息子の戦死にお袋が泣くだろうと、様々な思いが頭を駆け巡る。しかし、背後からは我が中隊の全員が俺の行動を見ているはずだ。卑怯な行動はとれん。臆して敵に水をあけられても笑われるだろう、ままよ、今生の名残りに思い切ってやって見るしかないと、頭を過ぎる想いは走馬灯の如く巡り、覚悟を決めた。敵との距離は、約三百五十㍍に縮まった。敵の五人は部落へ吸い込まれるように雪を被った森の間に消えた。私は部落の手前約百五十㍍のところで立ち止まり、着剣をして銃の安全装置を外し手榴弾は何時でも使用できる態勢にして、もう一度後ろを振り返った。支那馬に乗った中隊長率いる約一個小隊が約五百㍍に近くまで来ていた。私は友軍を待つのは男らしくないと思い、一番乗りしてやれと心に決めて部落に近づいた。部落には人影が見当たらない。しかし先程逃げ込んだ敵が何処の家にいるか、雪が足跡として教えてくれている。
『皆、出てこい!』と叫びたいところだが、私は正確な支那語が話せない。
止むなく知っている支那語らしい言葉で怒鳴った。

『良民来々』
『トントン的来々』

そうすると、何か声をかけられるのを待っているように、各家の戸が開いて、ぞろぞろと部落民が約三~四十名出てきた。逃げ込んだと思われる家からも何人か出てきたのが見える。
村長らしき者が笑顔で、
『トンシィー』(ご苦労様の意)と言って近寄って来た。村長か?分からない。銃で威嚇して全員を手まね身振りで一カ所に集め、後ろ向きになるように並ばせた。
その時だった、背後に殺気を感じ全身が硬直した。


(つづく)


記:真正大和撫子
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