思い出したこと
十数年前、アンマのダルシャンというものに参加したことがあります。
http://amma-rainichi.org/amma/index.html
「アンマ=お母さん」という意味で、その愛称で呼ばれるインドの女性のことらしい。
ダルシャンというのは、ネット辞書によりますと、「偉人や聖者に会って得られる精神的な高揚」とのこと。
素晴らしい方に会ったり、お話しを伺って、影響を受けることというような意味合いかなと思います。
十数年前に、神戸で行われていたのですが、まずアンマの講話を聞いて、そしてその後 アンマが参加者一人一人とハグ(抱擁)するという会でした。
「アンマのダルシャンがいいよ」と聞きまして、その当時、気になるセミナーなどに参加しまくっていた私は、よく分からないけど参加してみようと思ったわけです。
でも、説明を聞いても
「なぜにハグ?知らない外国の女性とハグするために、なぜこんなに大規模なイベントになってるの??」という疑問がありました。
当日、会場に行ってみると
すごい人で 千人弱くらいはいたのではないかな??
広い会場にぎゅうぎゅう詰めで
まずアンマの講話を聞きました。
通訳さんが逐次翻訳してくださる内容に耳を傾けていたのですが
内容は、世界の貧困問題などについてのアンマの考えをお話ししてくださってました。「本当は、人は生きていくために何もいらないのですよ」と
素晴らしい視点だと思いながら
「何もいらない」という点については、
「いや生きていくのに、色んなものが必要でしょ?」という考えが湧いてきてモヤモヤしていました。
講話の後は、アンマとハグをするために順番待ち。
整理券を持ちながら、「私は何をしているのだろう?なぜに、見知らぬインド人女性に抱きしめてもらうために、何時間も並んでいるのだろう??」という考えが頭をもたげつつ、
そして、人生生きるためには
服もいるし、住む場所がいるし
電気がないと日本じゃ暮らしにくいし
お金は必要でしょー??
「何もいらない」なんて理想論でしょうー?みたいな考えもグルグル
そして、順番が来て
アンマに抱きしめてもらいました。
しっかりギュッと抱きしめてくれているのに、まったく苦しくなくて
めちゃくちゃ柔らかな感覚に包まれました。
そして、先程まで
頭の中でグルグル回っていた思考はピタッと止まって
取れたというか落ちたというか
「憑き物が落ちる」と言いますが、こういう感じのことだと思う。
そして、空っぽになったところに
「あ、ほんとだ。何もいらないや」と思いました。
思ったというか、頭の中でいきなり
この言葉が生まれてきたような感じ。
とても不思議な体験でした。
アンマは、心から目の前の人を大事に思って、抱擁しているのだろうなぁと
そして、おそらく
日々日常、その心持ちで過ごしていて
そういう人に心から抱擁してもらった時、何か癒しが起こるのかなと
生きている中で、こうするべきとか
常識とか 自分を辛くする感覚をストンと落とすことになるんだなぁと。
そして、ただ「今、この瞬間」に戻してくれるのかなぁと
アンマとハグをして涙を流す人が続出していたのですが
自分の中の雑多なものを落として
純粋な核となる感覚に戻る感動があるからなのかなと思いました。
あと、何となく近いと思うお話。
中国かどこかの昔話で
〜男の人が、崖から落ちそうになっていて、かろうじて、ちぎれかけの蔦に捕まっている。
その下には人食い虎がその男の人を食べようと待ち構えている。
絶対絶命の状況の中、崖の途中に生えている野イチゴに気がついて
摘んで口に含むと、甘酸っぱい美味しさが口の中に広がって、その感覚を男は味わった。という話。〜
いやいや、野イチゴとか食べてる場合ちゃうやん!って思うのだけど、
どんな時でも目の前に幸せがある
「今、この瞬間」を味わうことで、それを感じられるという例え話らしい。
最近、また憑き物が落ちたような感覚になったことがあって
そんなことを思いだしたというシェア。