鮎にまつわる話
甲子園で、強豪東海大相模と戦って、見事勝ち上がった中京学院大学附属中京を育んだ、岐阜の事
その岐阜の城下町
岐阜町に由縁する戦国武将と鮎との歴史 について
少々
◼️伊奈波神社 社報、伊奈波さんより
家康と鮎の事が紹介されている
◼️社報の中の記事
奉納鮎
どの様にして獲った鮎か?
写真の鮎をよく見ると、鮎釣りでも網でもなく
鵜飼の鵜の食み跡がくっきりと残っています
当時は養殖など無かったでしょうから、正しく天然遡上の鮎だったのでしょうが
この記事では、岐阜で五月十二日奉納(鮎解禁は例年五月十一日)とされていますので、凡そ10cm〜15cm程度の大きさであるかと思われる
◼️徳川家康、鮎を獲れず
記事には
『家康は江戸と京都を往来する途中でしばしば岐阜町を訪れており、慶長十六年四月には鵜飼を観覧しました。この時は不漁で「鵜は百二十羽も集まったが、鮎は小さい茶碗のふた一つにも満たなかった」と記録されています』とある
この時点で、気が付く事がある
現在の岐阜(下流域)の鮎解禁は、前述の通り五月十一日であるため、四月に鵜飼とはかなり気の早い主であった事が伺える
そしてもう一つ
慶長十六年当時、現在の様に鮎の解禁日が制定されていたかは定かではないが、もしも解禁日があったとすれば、名将家康まさに不届き者と言わざるを得ない(おそらく決まりは無かったと思われる)
と、まぁ
岐阜が、岐阜町と言われていた頃に遡り
名将徳川家康は
天下人、友軍120羽をもってしても鮎は獲れず
かく言う私めは
天下は獲れずとも、囮一匹で鮎はそこそこ獲れまする
これにて
台風による増水で鮎釣りを断念した当家の小将
本日のまとめ
強豪相模に勝利した中京高校にあやかり
私も名将家康にちょっとだけ勝ったと言う事に・・
いたしたき候
でわ