珈琲の香りが漂ってきます。ヨーロッパにある宮殿の一室で、豪華なソファに座って、高貴な香りが立ち上る極上の珈琲を味わっている、そんな気分になります。数々のTVCMでそのような「高貴さ」のアイコンとしてバッハの無伴奏チェロ組曲が使われています。

 「この曲集の全レコード蒐集を思い立って三十五年、一応百組近くは蒐めた」という音楽評論家中野雄氏が、「繰り返し聴くのはシュタルケルのフィリップス盤とフルニエのグラモフォン盤である」と書いています。これはそのフルニエのグラモフォン盤です。

 バッハの無伴奏チェロ組曲は、作曲後二百年も「単なる練習曲と見做され、芸術作品としての地位を与えられなかった」そうです。そもそもチェロが独奏楽器としての地位を与えられていなかったわけですから、それも道理です。今でも独奏となると「おっ」と思ってしまいます。

 ところが、「古書店で色褪せた楽譜の束を発見した十三歳のカザルスが霊感にうたれたようにその虜になり、十三年の研鑽期間を経て蘇演を果たした」とのことで、以降、この曲は芸術作品としての地位が与えられ、百組を超える演奏が残る人気曲となりました。

 不吉とされる数字十三が重なるエピソードに鬼気迫るものを感じます。実際、それぞれ6曲ずつの組曲が6種類、ありとあらゆるチェロの顔が現れてきます。全部で138分、聴き通すとチェロの亡霊に取り憑かれてしまうようです。まことに恐ろしい。

 そのチェロの神曲を弾きこなして見事中野1位に輝いたのは、ピエール・フルニエがドイツ・グラモフォンに残した録音です。フルニエは1986年に80歳の生涯を閉じたフランス出身のチェロ奏者です。その佇まいからもとにかく気品が漂っています。

 中野氏は「この人の死を境に、『高貴』という言葉が音楽の世界で急速に死語になりつつあるような気がしてならない」とまで書いています。評論家仲間の宇野功芳氏もフルニエについて「『気品がある』って書いたらそれでおしまいじゃないですか」と書いています。

 気品が歩いているような人だったことが分かります。確かに写真を見ても、とにかく気品に満ち溢れています。クラシック音楽に人々が無意識に求める気品というものは、この人にとどめを刺すといってもいいでしょう。まるで余計なものがない。

 しかもチェロ。バイオリンやピアノ、フルートなどと異なり、チェロは控え目です。チェロ奏者というだけでどこか気品を感じます。がつがつ表に出ていかない。しかも音域に品があります。きんきんしない。超絶技巧をこらしても見せびらかすようにはならない。

 一番バッハらしさを感じる作品だとも思います。西洋音楽の基礎をがっちりと築いたバッハの節回しがあからさまに表れています。チェロ奏者にとっては聴いていると忙しくてしょうがないでしょうが、全く無関係の私などはただひたすら気持ち良く聴いていられます。

 いきなり百組の頂点にたつ録音から入ることができて光栄です。確かに品がある。そのことは良く分かります。クラシックを聴くからには、こうした気品がほしいものです。世の中の塵芥の忘れ方にいろいろある中で、気品をくらって忘れるというのは極上の方法です。

参照:「新版クラシックCDの名盤」「新版クラシックCDの名盤演奏家編」(文春新書)

J.S.Bach : Sechs Suiten für Violoncello solo / Pierre Fournier (1961 Deutsche Grammophon)