荒涼とした光景がジャケットに広がっています。これは氷山かと思いましたが、コンクリートです。破壊された建造物に雪が降り積もっているように見えます。DGのジャケットは一筋縄ではいきませんが、これは中でも特上です。

 エミール・ギレリスは「鋼鉄の腕を持つ」男と言われています。そう言われて初めてジャケット写真に合点がいくというものです。鋼鉄の男が街を破壊しつくしてしまうようにピアノを武器に暴れまわる。アイアン・マン!です。

 ギレリスはロシアの20世紀を代表するピアニストです。オデッサのユダヤ人家庭に生まれ、6歳でピアノを始めると、17歳でソ連のピアノコンクールに優勝して、その華麗な経歴がスタートします。ギレリスは政府によって西側で自由な活動を許可された最初の芸術家でした。

 ベートーヴェンのピアノ・ソナタといえば、バックハウスが有名ですけれども、ギレリスも負けていません。「ミスター・ベートーヴェン」と呼ばれることもあるほどで、ベートーヴェンの演奏においては定評がありました。

 彼はドイツ・グラモフォンでベートーヴェンのピアノソナタ全集を録音していきます。この作品は全集との関係が定かではありませんが、同じレーベルに残されたピアノ・ソナタ3曲をまとめたCDです。選曲が先かジャケ写が先か、編集の妙味です。

 まず1972年1月の第21番「ワルトシュタイン」、次いで1973年6月の第26番「告別」、最後は1974年12月の第23番「熱情」です。それぞれギレリス55歳、56歳、58歳の録音です。歳とともに剛腕から枯淡の境地へと変化していった時期の作品だと言えます。

 最初の「ワルトシュタイン」を聴いた時には、「鋼鉄の腕」という形容がまるで似合わない柔らかい丁寧な響きに驚いたものです。聴いていてちょっと泣きそうになりました。ドラマ性が高いと言われるワルトシュタインですが、その緊張感を柔らかくいなしたところが素敵です。

 しかし、最後の「熱情」を聴いて、鋼鉄の意味がよく分かりました。ちょうどボリュームを上げたせいもあるのですが、クライマックスに向かって、これでもかこれでもかと叩きつける演奏はまさに鋼鉄の男そのものでした。あまりの強烈さにいたたまれなくなりました。

 ジェレミー・シープマンなる評論家の言葉がジャケットに記載されています。彼はベートーヴェンとギレリスはお互いのために作られたと言い切っています。どちらも威厳をまとい、ピアノに全生命をかけ、パワフルな肉体男だったと。

 若い頃はもっと鋼鉄度が高かったのだとすると、ブラック・サバスのアイアン・マンを地で行くような人だったのではないでしょうか。それが歳を重ねるに連れて丸みを帯びつつも、時おりアイアン・フィストをむき出しにする。爽快な演奏です。

 やはり聴き物は「熱情」です。「ワルトシュタイン」と並んでピアノ表現のダイナミクスと音域を大幅に広げたとされるイケイケの大作は鋼鉄の腕のために作られたような曲です。圧倒的な推進力にぐいぐい押されて階段から落ちそうです。

Beethoven : Piano Sonata 21,23,26 / Emil Gilels (1975 Deutsche Grammophon)