じわじわ来ます。宇多田ヒカルの実に8年半ぶりとなる新作が発表されました。まだ33歳なのに8年半のブランクというのが凄いです。今時、33歳ではデビューと言われてもおかしくない年齢なのに。早熟の天才ならではです。

 その8年半の間、2011年からの約5年間は人間活動に専念するとして、アーティスト活動がさほどありませんでしたが、それにしては結構話題を耳にすることは多かった。さすがは天下の宇多田ヒカルです。

 というわけでさほどブランクがあったようにも感じないのですが、それは外野の勝手な意見で、本人にとってはさまざまな葛藤があった大変な時期だったんでしょう。しかも、最愛の母を亡くすという大事件も起こっています。

 「一時期は、何を目にしても母が見えてしまい、息子の笑顔を見ても悲しくなる時がありました」ということですが、アルバムを作る過程で、「ぐちゃぐちゃだった気持ちがだんだんと整理されてい」ったそうです。エリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・ヘヴン」を思い出します。

 今回のアルバムは、「亡くなった母に捧げたい」との思いで作られています。先行リリースされた「花束を君に」と「真夏の通り雨」を聴いたファンの中には、言われなくてもそのことに気付いて共感した人が多く、そのことが宇多田ヒカルを勇気づけたそうです。

 ファンとアーティストのとても羨ましい関係です。べったりとし過ぎずに、適度な距離でお互いが感じ合う。とても大人な関係が切り結べるほど、宇多田ヒカルも歳を重ね、ファンの皆様も虚像ではない宇多田ヒカルと向き合う人ばかりになったのでしょう。

 アルバムは唄を中心に組み立てられており、演奏は簡素で歌が前面に出てきます。派手な演出はないので、最初は地味な気がするのですが、じわじわ来ます。彼女の作品は以前から私小説的なところがありましたが、今作はそれが極まっています。

 かといって陳腐になるわけではなく、普遍性を兼ね備えた歌詞になっているので、世代的に共感しあう歳でもない私でも、その重さは十分に伝わってきます。とても真摯な重いアルバムだと思います。テーマは「母」ですし。

 トラックは簡素とは言え、楽器とエレクトロニクスのバランスやら何やらとてもセンスが良くてカッコいいです。「荒野の狼」のストリングスとブラスなんて、一見何でもなさそうですけれども、細部まで神経が行き届いていて好きです。

 冒頭の「道」はEガールズみたいだと思ってしまいましたが、これって今のJポップが宇多田的だということですね。逆でした。言葉の使い方がやや違和感があるのですけれども、このアルバムのカギを握る素敵な楽曲です。

 「でも『お母さん』って最もポップな題材じゃないですか。たぶんほとんどの人にとっても、母親か、もしくはそれにあたる存在がいるわけで、そこから自分の核なる部分や、自分だけの世界を形成していく。それってめちゃくちゃポップだと思うんですよ」。さすがです。 

参照:インタビュー

Fantôme / Utada Hikaru (2016 Virgin)