何と厳しい顔でしょう。稀代のキャンセル魔とも称される気難しいピアニストは一分の隙もない佇まいを見せています。強いて言えばハイネックのシャツが隙かもしれませんが、ここはイタリア男のレオン的お洒落センスの表れです。
 
 ベネデッティ・ミケランジェリのドビュッシーには定評があります。その彼のスタジオ録音の定番とも呼ぶべき一枚です。「映像」の第一集と第二集を録音した1971年のアルバムと、「前奏曲集」第一集を録音した1978年作品をカップリングした作品です。
 
 ドビュッシーが新たな領域に足を踏み入れたと言われる40歳以降の作品「映像」第一集と第二集、その世界をきわめたと言われる「前奏曲集」がここに収録されているわけです。これらの作品は、それぞれに標題が控えめに付けられています。
 
 従来は、その標題を読み解いて、「聴き手に語って聞かせようというスタイルが長く主流」でしたが、ミケランジェリはここで、「完璧とも言える技術を武器に、音楽をストーリー性から切り放し、響きと音色を極限まで研ぎ澄ませ」ました。
 
 このことは、「ドビュッシーのピアノ音楽演奏のあり方に一石を投じ」ることになりました。革命的なアルバムと言えるわけです。この後の演奏者はドビュッシーをどのように捉えるにせよ、ミケランジェリを意識せざるを得なくなったことでしょう。
 
 感情なりなんなりを音に込めていくのか、音そのものを追及するのか。この問いはポピュラー音楽の世界でもお馴染みの問いです。そして、その答えはいまだに風に吹かれています。どちらも正解なんでしょうが、どちらかに与したい。
 
 どちらも捨てがたいにしても、安易に感情を込めようとするのはよろしくないと思います。不純な気持ちで奏でられる音楽であっても、時に音楽の神様が降臨することはありますけれども、そちらの方が険しい道です。
 
 ここでのミケランジェリのピアノは本当に素晴らしい。これまでに聴いたどんなドビュッシーよりもダンディーです。一点の迷いもなく、力強く奏でられるピアノを聴いていると、自然に背筋が伸びてきます。
 
 素人のピアノ自慢大会を見たばかりの私には、もはや同じ楽器とは思えない。完璧な技術と強靭な精神に裏付けられた音が体に染みわたります。多用される残響音ですら力強い。ドビュッシーの音楽に対する見方が変わりました。
 
 ところで標題はどれも控えめに記載されているそうですが、それにしては考えさせるものばかりです。普通は調べざるをえないでしょう。デルフィやアナカプリ、ミンストレルズにパック、そしてラモーなどなど。さらに「西風の見たもの」や「沈める寺」。考えざるをえない。
 
 そんな誘惑に打ち勝ってか、それとも調べつくした上で一旦捨て去ってか、音の響きと音色に入れ込むのは並大抵の精神力ではありません。イメージを喚起するのではなく、音そのものに没入させてくれる凄いピアノです。
 
参照:「コモンズ・スコラ第三巻 ドビュッシー」
 
Debussy : Préludes Volume I / Arturo Benedetti Michelangeli (1978 Deutsche Grammophon)