時間は有限だ。というのは誤りである。
時間は無限である。宇宙が終わるとかそういう話をするなら有限かもしれないが、何十億年後の話をしても、それはもはや十分大きいから無限と見做してもいいと思った。
有限なのは時間ではなくて、この有機体としての肉体だ。
そこの自覚を常に持つこと。
幸福の王子で書いてあったこと
主人公は、死が近づくと、他人なんてどうでもいいと思うのかと思ったが、
身近な人、大切な人を愛おしく思うようになったって。書いていた。
この愛おしさ。自己の有限さに加えて、他者の有限さを儚く思えるなら、それは愛だと思う。
過去について。過去とは変えられないもの。
ときに、自分に無力さを突きつけてくるものだ。
1日の中で、俺が最も大切にしたい時間はどこだろうか。
大切な人と一緒にいる時間ではないだろうか。
もしくは、夢のために邁進する時間ではないだろうか。
全てが大切というのは、何も大切にしていないのと同じだ。
ナポレオン曰く、人生という試合で最も重要な得点は、休憩時間に入れた得点であるって。
休んどる場合とちゃうぞということか?
根源、本質。言い方はなんでもいいけどさ。仮初ではないものを求めたいよね。
つぎつぎと新しいことがやってきて、それに対応しているうちに、1日が終わっている。そんなのは嫌だ。
どっかり腰を下ろしてみたい。人生に立ち向かってみたい。
今日はやけに肩が凝った。なぜだろうか。
瞑想をしてみろ。サウナで。心が静かになって、どんなことでも受容できるようになる。
今私には彼女がいないが、それがどうしたというのだ。確かに寂しいが、そもそも番(つがい)を作るというのは、人間という生物に埋め込まれたものなのだ。本能的に求めるものなのだ。
ロゴスで考えろ。それがなかったって死なない。本能に支配されるな。DNAに刻み込まれているからといってそれに従うだけが幸せではないだろうが。
人生とは快楽を満たすためのものなのか。
刹那的な日々の雑務をこなしながら時折の幸運に舌鼓を打つ、場当たり的で儚いものなのか。
人生とはなんだ。自分とはなんだ。
瞑想をするとさ、自分という器が大きくなる。境界線が必要でなくなる。
その感覚は、大事にしたい。
凝り固まった思考を洗い流してくれる。
ハイデガーさん、負い目について議論している。
人間は有限の存在である
↓
無力さを感じる(緊張感、焦り、負い目?とかかな)
↓
この無力さと正面から向き合えって
死の先覚的覚悟
恐怖に向き合う。
未来の可能性を考慮した方がいい。
ぜんぜんとか、もっととか、そういう副詞は使用しないようにする。
具体的にどのぐらいってのを大事にする。
これから先に迷ったときは、過去に向き合えって。
反復する。過去は変えられない宿命だ。これまでどんなことをしてきた人間なのか、どんな環境に放り込まれた人間なのか。反復することで、次に打つ手が見えてくるって。
自分の内なる良心の声に耳を傾けろと。
良心の声は、呼びかけなんだって。
おいとか、おおとか
それ自体で意味のあるものではない。
ただ、それを契機に変わることができる。
突然天からのお告げのように声が聞こえるわけではないって。
心の内なるところで、常に小声で、呼びかけられているって。
パウロコエーリョのアルテミストで、心の声について触れていたな。
小説的な、あるいはスピリチャルな説明はわかるし、信じたい気持ちは強いんよ。
これ、理論的に、数学的に説明してくれないかな。
科学的にというつもりはない。でも、理論があるはずだ。そして、実験ができるはずだ。
瞑想をしている時の脳の状態はどうなっているのだろうか。
ーー
だぁれが風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉を震わせて
風は通り過ぎていく
風よ翼を震わせて
あなたのもとに とどきませ
ー風立ちぬー
ーー
とつぜんに、おもいだした。また見たいな。堀越二郎みたいに生きたいな。かなり宮崎駿デフォルメされているし、サイコパスだし、人の気持ち考えない人ではあるけどね。
自分のやりたいことを貫くのがかっこいいのか。世界一の戦闘機を作ることが意味のあることなのか。
じゃぁ、自分の目指す理想の人間とはどんな人だろうか。やっぱり実在の人の方がいいかな。映画の方ではなくて、栄光と挫折の零戦の本を読み返すか。
人は死ぬ。それはいい。ただ、問題なのは、確実な死という現象から目を逸らして、非本来的な生き方をすることを潔しとしている点だ。てさ。ハイデガーさん
「気づいたら、この世に放り出されており、死ぬことが運命付けられており、何が正しいのかもわからないまま、自分だけの固有のあり方を問い続け、他と関わりながら、今を生きている存在。」これが人間なのだと、主人公は定義していた。
サンスーシー(憂なし)
ドイツの宮殿
あとは、印象的だったのは、
おもしろいな。視覚的な態度と聴覚的な態度やってさ。
対象を目の前に置いて、主客分離して、見てやろうと観察者の気持ちで臨むのではなく、
だまって静かに聞き取ろうとする聴覚的な態度が求めれるって。本質にたどり着くには。
どちらも、感覚器官からの電気信号なんだがな。光の波長が網膜をしげきするか、
空気の振動が鼓膜を刺激するかの違いよ。
あれ、宇宙って、音聞こえないのかな。伝わらないものね。あの密度では
ーー
汝の敵のために祈りなさいって、新約聖書に書いていた気がする。
著者の飲茶さん、東北大院出身で、ブログで、数学とか哲学とか、解説して人気集めたってさ。
史上最強の哲学入門読んでみようかな。
ーー
うん、人間は愚かなのかな。反省することを知らず、過ちを繰り返すか弱い存在なのかな。
そういう解釈好きではないな。そもそも愚かとは何か。その愚賢の座標軸の規定ベクトルはどう定義されているんだ。誰が定義したんだ。
自らが納得して決定したこと。これに意味があるのでは。ないかな。わかんね。
意味わからん。
自分という存在は、自分が思っているほど、尊くもないし、かしくこくもないし、バカでもないんだと思う。何を胸に抱いて生きていくか。自分の志は何か。生きる上での価値観ベクトルを自分で認識した状態でいきたいね。