2024. 6. 30  日経新聞「Science」

青木慎一 (編集委員) 氏


新5000円札の顔となった津田梅子氏は、英語の津田塾で有名ですが、生物学も学んでいた、というのは初耳!

とにかく超優秀な人だったようです。





〝選べなかった科学者への道〟

 〜新5000千円札の顔・津田梅子の葛藤〜



7月3日、新しい紙幣の発行が始まる。

新5千円札に肖像が使われる津田梅子は津田塾大学の前身の女子英語塾を創設し、女子高等教育の先駆者として歴史に刻まれている。

実は2度目の米国留学で生物学を学び、研究者として将来を嘱望されていたことは知られていない。

生物学者を選べず、教育者として生きた背景には何があったのか。


1894年、英国の学術誌に梅子の論文が掲載された。

米プリンマー大学で指導を受けた准教授 (当時) のトーマス・モーガンと、カエルの受精卵が細胞分裂する際に生じる溝や肛門のもとになる組織と色素の位置関係を調べた。

大阪医科薬科大学の秋山康子非常勤講師は

「遺伝子やDNAの存在がわかっておらず、実験手法も確立していない時代に丁寧に観察し、分析している」

と感心する。


当時、海外の学術誌に日本人の論文が載るのは珍しく、女性としては初めてだ。

モーガンは「梅子のおかげでまとめられた」と語った。

梅子の担当した部分はほぼそのまま使われた。

秋山氏は「論文はこんな風に書くのだなと改めて感じさせるような文章」と話す。


梅子は71年、6歳で日本初の女子留学生のひとりとして渡米した。

17歳で帰国すると、英語教師として華族の子女に教えた。

しかし、良妻賢母を育てる学校の方針などに不満を抱き、再留学を目指す。

女性でも学問ができるのか、試したいという思いがあった。


89年、東部のプリンマー大で2度目の留学生活を始めた。

最初は教育法を学ぶつもりだったが、勃興期にあった生物学と出会う。

梅子は最初の留学時、高校でも数学や物理、天文が得意だった。

科学史家で日本大学教授などを務めた古川安氏は「農学者の父親の影響もあった」とみる。


関係資料を調べた古川氏によると、モーガンをはじめプリンマー大の教授陣は梅子の研究や学問への姿勢を激賞していた。

手先が器用分析力が高かったという。

講師だったフレデリック・リーは

「非常に優れた知性と科学的才能を発揮した」

と評価している。


帰国前、梅子は大学に残って研究を続けるよう打診される。

古川氏は「残っていれば、奨学生となり、モーガンの下で博士号も取得しただろう」と指摘する。


しかし、申し出を断る。

梅子の学友で、後に来日して女子英学塾を支えたアナ・ハーツホンの手記によると、プリンマー大幹部は「信じられないという反応を示し憤慨していた」という。





つづく〜