〜つづき
林出賢次郎 (林出吉生氏提供)
林出は西域を訪れた第2、第3次の「大谷探検隊」(※浄土真宗本願寺派第22世法主、大谷光瑞が主導) にアドバイスを与えたり、陸軍が聖域へ送り込んだ年上の陸軍少佐、日野強 (1868〜1920年、西域行当時は40代) を驚かせたりもしている。
その日野は、林出らの翌年 (明治39年) 9月、東京を出発、新疆へ入ってウルムチから伊犂へ。
さらにインドへ渡り、40年12月に帰国した。
詳細な旅の記録は『伊犂紀行』(42年) に詳しい。
同書によれば、日野が林出に会ったのは40年の2月、ウルムチへ入る直前の山中だった。
林出はすでに前年の4月、伊犂へ到達し、情報を入手し、人脈も築いた。
帰国の途上だったが、《引返して日野と共にウルムチに入り、数日の間同居していろいろ日野に指示を与えた》(『伊犂紀行』解説から) 。
残された日記から
林出と同行した波多野についても書いておきたい。
再び、藤田の『東亜同文書院 中国大調査旅行の研究』を参照する。
明治15 (1882) 年、現在の北九州市若松区の生まれとあるから、林出と同年である。
34年、福岡の名門・県立修猷館(しゅうゆうかん) 中学 (※旧制、現修猷館高校) を出て、旧制高校への進学を希望したが、父を亡くしたため、学費不要の東亜同文書院へ入学した。
県から同学院への進学枠は「2人」だったから、かなりの競争率だったことが分かる。
卒業後の2年間の西域への調査旅行の後は、北京の日本公使館に勤務。
大正5年には東京の本省へ戻った。
その後は民間企業に勤めつつも体調がすぐれず、昭和10年、50代前半で亡くなっている。
林出ら5人の詳細な記録が残ったのは、前述のように波多野の日記によるものが大きい。
家族が日記を遺稿集として刊行したことで、調査旅行の生々しい実態が後世に伝えられることになったのである。
藤田は、波多野の記録についてこう評した。
《所与の能力と体力をフルに発揮し、その任務を果たしたことが波多野の日記から生き生きと伝わってくる。
彼らにとっては、初の本格的中国奥地への踏査旅行であったがゆえに、不慣れな点や体力の消耗との戦いがドラマチックでさえある。
そんな中で (略) 九死に一生を得ながらも旅行を遂行できた意味は大きい》
一方、林出の和歌山県御坊(ごぼう) 市の実家は現在、孫の林出吉生(よしお : 65) が守っている。
家族からみた林出はどんな人物だったのか?
溥儀との関係を問うと、
「皇帝陛下について家人には多く語りませんでしたが、尊崇の念を持ち、誠心誠意、お仕えしていたものと察します」。
そして、「孫にも明るく向き合ってくれた祖父でした」と…。
=敬称略
〈〝大冒険〟だったんだろうなぁ、、
いい経験をしたんだと思います。
若いからこそ可能だったのかもです。
今の時代だと初の宇宙旅行みたいな感覚、、?
そこまでではないか、野球に例えて、野茂が単身大リーグに飛び込んだような感じ…?〉