〜つづき
侍衛官(じえいかん) とは、侍従と警衛を兼ねたポストで、工藤に対する溥儀の信頼は極めて厚かった。
それは名前に表れている。
工藤の元の名は鉄三郎で、「忠」は溥儀から与えられた名であった。
青森県出身の工藤は東奥義塾、専修学校 (現専修大学) を出て中国に渡る。
溥儀とのつながりができたのは、大正6年、12日間でついえた溥儀の「復辟(ふくへき : 退官した君主が再び王位に就くこと)」がきっかけだ。
満洲事変後の昭和6年11月には、工藤が関東軍の意向を受けて、天津に潜んでいた溥儀の「連れ出し」にひと役買っている。
身長約180㌢の工藤は当時としては、かなりの大男であり、恰幅(かっぷく) もいい。
溥儀の2度の訪日 (10年、15年) に付き添い、日本でもその存在感を示した。
一方、満洲国や溥儀に対して影響力を強めてゆく関東軍首脳らとの間に入って〝緩衝材〟役を果たしたともいえようか。
昭和10年の訪日で傷病兵を見舞う溥儀 (中央)
林出、工藤の2人も同行した
=国立国会図書館デジタルコレクション「皇帝陛下訪日記念写真冊」から
昭和10年の溥儀の訪日の写真冊には随行員として林出らの名があった
=同コレクション「…写真冊」から
かつての主を擁護
21年8月、ソ連 (当時) 抑留中の溥儀が東京裁判の証人として姿を見せたとき、工藤は傍聴席にいた。
虚言を繰り返す溥儀に旧関東軍関係者らはあきれ返ったが、工藤の思いはむしろ、「憐憫(れんびん)」に近い。
忠誠心にも変わりがなかった。
廃帝を、なお「皇帝」とつづっているのも、その表れのひとつであろう。
工藤著の『皇帝溥儀』(27年刊) を引く。
《…背の高い、痩せぎすの、黒眼鏡をかけた、蒼白な面貌の皇帝が出現した。
皇帝は、多分、ソ連政府の傀儡となって、牽制を受けた為だろう…》
一方、東條英機 (元首相) の弁護人を務めた清瀬一郎は、溥儀の虚言を覆す切り札として〝工藤の存在〟を引き合いに出す。
つまり、「(忠臣であった) 工藤の言動までウソというつもりか」と突き付ける戦略だったのだ。
再び工藤著『皇帝溥儀』の裁判のくだりを参照しよう。
《清瀬一郎弁護人「…工藤という人が忠実であったことは、御承認下さるでありましょうか」─。
皇帝は、これに対して、黙って、うなずいただけで、速記の上には、何等(なんら) の言葉ものこしていない》
その上で《あれ (※溥儀の証言) は、軍に対する不満であって、日本皇室や日本人に対する憎悪でないことだけは見きわめねばならない》と、かつての主(あるじ) を擁護した。
このときの工藤と溥儀の再会は〝法廷ごし〟にとどまっている。
《ぜひ個人的にお目にかかろうとしたが、許されなかった…私は、某新聞記社臨時記者として、法廷にでかけ、出来るだけ皇帝の身近に接しようとつとめた。
無論、言葉をかわすことは出来なかった》。
そして、《私に対する (溥儀の) 信頼は、永久に保持さるるであろうと信じて》(『皇帝溥儀』から) と書いているのは切ない。
くしくも林出と工藤は同い年 (明治15年生まれ) で、溥儀よりも25歳近く上である。
幼くして実父母と離され、皇帝になった溥儀にとって2人の側近は「父親」代わりだったのかもしれない。
=敬称略
〈溥儀と日本人の2人の側近にこんな物語があろうとは、、
25歳離れていればまさに親子。
映画「ラストエンペラー」では知り得ぬもう一つの物語〉