〜つづき
そして、15年7月15日、溥儀名で建国神廟創建を知らせる詔書「国本奠定(こくほんてんてい) 詔書」が発せられる。
当時、満洲国総務庁弘報処長だった武藤富男 (1904〜98年) 著の『私と満州国』に放送用に分かりやすく述べた要旨が載っている。
《このことが皇帝の本願から出ていること、そして皇帝は、「肉体によれば愛新覚羅の子孫であるが、精神においては万世一系の皇統につながるものであり、この度のことにより、皇帝は日本の皇室の養子になったものと言いうる」としめくくった》。
「皇室の養子」とは驚くべき〝すり寄り〟ではないか。
若いころの溥儀
建国神廟では、どんな祭礼が行われたのだろう。
『満洲国法令輯覧(しゅうらん)』に「建国神廟祭祀令」(康徳8=昭和16年) が載っている。
第1条に《建国神廟ノ祭祀ハ大祭、中祭及小祭トス》とあり、「皇帝親行祭典」である大祭には、建国節祭 (満洲国が建国された3月1日) ▷元神祭 (神廟の創建日である7月15日に満洲国建国の元神である天照大神を奉祀する) 。
そして、中祭として、溥儀の誕生を祝う万寿節祭 (2月6日) に加えて、日本の皇室にちなんだ紀元節祭 2月11日) ▷天長節祭 (4月29日) が挙げられている。
ちなみに建国神廟について溥儀の『わが半生』では、〝関東軍の言いなり〟になって、させられたこととし、天照大神の勧請(かんじょう : 分身・分霊を他の地に移して祭ること。神仏の神託などを祈り願うこと) についても「まったく正反対」のことを書きつづっているのだが。
「み母の如く」
戦後、言動を豹変させた溥儀も、日本の皇室に対しては「あしざま」にいうことはなかった。
先の武藤著『私と満州国』にこんなくだりがある。
《 (東京裁判で) はいくつもの虚言を建国神廟創建について吐いたが、日本皇室には一言もふれることがなかった (略) 長じて日本皇室の愛情にふれた時、その心の内奥に純愛の鼓動を覚えなかったであろうか。それは、建国神廟の創建にかかわりをもたなかったであろうか》と…。
溥儀が「日本皇室の愛情にふれた」のは10年、15年の2度の訪日の際である。
10年の訪日に、同行 (訪日扈従員) した林出(はやしで) 賢次郎 (1882〜1970年) の記録『扈従(こじゅう) 訪日恭紀』を見てみよう。
とりわけ大正天皇の皇后である「皇太后陛下 (貞明皇后) 」との交流が印象的だ。
大宮御所を訪ねた溥儀と貞明皇后は親しく歓談、明治天皇から賜ったという薩摩焼の置物をプレゼントされている。
《皇帝陛下 (※溥儀) には一入(ひとしお) 御感激になり、深く御厚意を謝せられた》
昭和10年の訪日の際、靖国神社を参拝した溥儀
(右から2番目)
=国立国会図書館デジタルコレクション「満洲国皇帝陛下御来訪記念写真帖」
(軍事教育研究会編) から
武藤の『私と満州国』に貞明皇后が溥儀に贈った和歌が載っている。そのひとつは
「われをしもみ母の如くおぼしつる その御心に親しまれつつ」
という温かいものだった。
『扈従訪日恭紀』は《思はず眼頭が熱くなるのを覚えた》と締めくくっている。
=敬称略
〈溥儀の東京裁判での証言…保身、裏切りとはいえやむを得なかったのだろう。
でなければ極刑、、しかも中国だったらどんな残酷なやり方をするか、よく分かっていたのでは。
それでも日本の皇室だけはスルーした。
貞明皇后をはじめ、皆によくしてもらったからですね。
これをみると、今も皇室は来訪する国の大小に関わらず、等しく分け隔てなく丁重におもてなしする…その姿勢・伝統は素晴らしいと再認識します。
それにしても〝日本の皇室の養子〟とまで言っていた、考えていたとは。
単なるすり寄り、という以上の〝何か〟を感じますね。
何となく、哀れというか気の毒というか、、
映画「ラストエンペラー」では溥儀を超美男のジョン・ローンが演じていましたが、実人物は細身で幸薄そうなイメージの人ですね。
ところでジョン・ローン、最近は見かけませんがどうしているのかな、、元気にまだ俳優やってるんでしょうか〉