2024. 4. 3  産経新聞「満韓あちらこちら27」

喜多由浩 (編集委員) 氏

今年亡くなった小澤征爾氏の父親の話。





〝「民族協和」掲げた小澤開作〟

 〜満洲国の理想と現実〜



今年2月、88歳で亡くなった「世界のマエストロ」こと、指揮者の小澤征爾は、昭和10 (1935) 年、当時の満洲国・奉天 (現中国・瀋陽) に生まれている。


歯科医だった父、小澤開作(かいさく: 1898〜1970) は、だ満洲青年聯盟(れんめい) から、満洲国協和会となった民衆組織のリーダー的存在として、満州事変 (昭和6年) →満洲国建国 (7年) に関わった人物である。

三男「征爾」の名を、一連の行動を主導した、関東軍の2人の軍人、板垣「征」四郎 (※陸軍大将、関東軍参謀長、陸相など歴任) と石原莞(かん)「爾(じ)」(※陸軍中将、参謀本部第一部長、関東軍参謀副長など歴任) から、とったのは有名な話だ。


もっとも、征爾が生まれた10年頃には、開作が夢見た真の「民族協和」を実現するアジア国家の〝理想と現実の乖離〟が、もはや覆い隠せなくなり、やがては、新たな活動の場を求め、北京へ向かうことになるのだが…。


熱血漢の行動派


明治31年、山梨県の小村に生まれた開作は、上京して、働きながら学校に通い、歯科医の資格を取っている。

満州へ向かうのは大正12年。

当初、満州にとどまるつもりはなかったという。


《満鉄・シベリア鉄道でドイツまでゆくつもりだったらしい (略) 朝鮮経由で大連についた開作は…中耳炎にかかり、それがかれの足を満州にとどめさせ歯科医院をひらかせる…》(松本健一著『昭和に死す  森崎湊と小沢開作』から) 。

開業したのは後に満洲国の首都・新京となる長春の街であった。

開作は結婚し、4男をもうける。


思えば、三男の征爾も20代前半だった昭和34年、メーカーから提供されたスクーターとギターを持って貨物船で単身ヨーロッパへ渡り、同年の仏ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位に輝く。

そしてカラヤンやバーンスタインなどに認められ、世界的指揮者の道を歩む。

「カエルの子はカエル」だ。


大陸での開作は、やがて掲げた理想実現のため、本業 (歯科医院) もそっちのけで、満州の民衆組織の活動にのめり込む。

開作について書かれた物を読むと、そのパッションの激しさは、触れればヤケドしそうな熱血漢、行動派だったといえようか。


満洲青年聯盟ができたのは昭和3 (1928) 年。

開作は程なく運動にかかわり、後には長春支部長となった。

満州に入植した朝鮮人農民と中国人の対立に端を発した万宝山事件 (昭和6年7月) から、同年9月に始まった満州事変にかけて、開作ら、満州青年聯盟のメンバーは〝めざましい活躍をとげる。


民間人らを動員して、長春に飛行場をつくり上げたのもそのひとつ。

主義主張に反対する者には相手がたとえ軍の幹部や政治家であっても引くことがない。


開作らが目指したのは、排日主義を強めていた張学良(ちょうがくりょう ※張作霖の息子) ら軍閥をはじめ、列強による帝国主義や権益主義、ソ連 (当時) らの共産主義に「対抗」できる「民族協和」のアジア人国家の建設である。

満州に住む、日、満、漢、蒙ら3000万人の民衆が対等の立場で共存共栄できる、まさに「理想の新国家」であった。


だから、満洲国のトップに清朝最後の皇帝だった溥儀 (当初は執政、後に皇帝) が就任した際には、多数を占める漢民族が納得しない、溥儀のために死ねるか?  と反対の立場を取ったのである。



つづく〜