〜つづき


戦前・戦中の満州




近代的な建築物


長い歴史の中では小さな街に過ぎなかった長春が発展し始めるのはロシア主導の東清鉄道が20世紀初頭、ハルビンからT字形に南へ下る線を開通させたことによる。

ロシア人がつくった街は東清鉄道の寛城市(かんじょうし) 駅を中心とした (ロシアの) 鉄道付属地であった。


日露戦争後のポーツマス条約によって、日本が後に満鉄線となる鉄道の長春以南の経営権を獲得したことは前述したが、「長春」の位置について日露で齟齬(そご) が生じ、日本は寛城市駅の南に新たに満鉄の長春駅をつくり、その周辺に別の鉄道付属地を設定した。

日本人による、長春 (後に新京) の最初の都市計画は、ここを起点にして進められることになった。


そして、満洲国建国によって、長春が新首都 (新京) に定められ、さらにエリアを拡大した都市計画が推進されることになる。

それは「百万都市」を念頭に置いた一大計画だった。

新駅から放射状に延びた道路と、それに沿って立ち並ぶ官公庁、企業、ホテル、学校、住宅…。公園や上下水道も整備した近代的な都市整備事業である。


このうち、満洲国行政のトップといえる国務院が入ったビルの外観は日本の国会議事堂とそっくりだ。


旧満洲国国務院の建物

=平成30年8月、中国・長春 (『満洲国の近代建築遺産 船尾修写真集』から)



施工は関東軍司令部を手掛けた大林組

インターネット上で公開されている『大林組百年史』を引こう。

《昭和8年 (1938) 2月、関東軍司令部庁舎の新築工事を受注し、翌9年には満州国国務院庁舎、満州中央銀行の建設に着工したが、これらはいずれも新興満州国の首都新京を代表する建築物であった》


鉄道の「その後」についても触れておきたい。

当初は、長春で鉄路の経営が日露で変わるため、満州からシベリア鉄道を経由してヨーロッパへ向かう乗客は、長春駅で乗り換えなければならなかった (※両者はレール幅が違う) 。

その上、日露は使用している標準時 (※満鉄は『満州時間』ロシアは『ハルビン時間』。日本内地の中央標準時はさらに異なる) が違い、乗客は不便極まりない。

このため、長春駅には、両国の時間を刻む時計が「2つ」設置されていたのである。


不便な乗り換えや、ややこしい時差が解消されたのは昭和10 (1935) 年のことだ。

満洲国が同国内を走る東清鉄道 (※当時の名称は北満鉄路) の長春以北部分を、当時のソ連から買収したからである。

その運行は満鉄に委託され、ハルビンまでの直通運転が可能になり、大連─長春間を結んでいた満鉄自慢の特急「あじあ」もハルビンまで延伸された。


このとき、得意のロシア語を駆使してソ連との買収交渉に当たり、かなりの値下げを勝ち取ったのが当時、満洲国外交部 (外務省) に出向していた杉原千畝(ちうね)。

後にリトアニア駐在の公使として〝命のビザ〟を発給し、多くのユダヤ人を救った人物である。


=敬称略




神宮外苑にある聖徳記念絵画館

(国内のウィーンセセッション風の建物・上部に円いドームが見える)



ハロプロのグループ「アンジュルム」のリーダー竹内朱莉さん (2023年4月17日撮影当時) が書道展を開いたことで、この建物を知りました。




神宮外苑にこんな歴史的建築物があるとは知りませんでした。

間近に見た印象としては、頑強・堅牢な造り、かつ堂々とした趣のある建物ということです。




〈中国の人はあまり細かいことにはこだわらない、、実用的かどうかなんですね、韓国だとこうはいかない。


関東軍の元は鉄路と付属地を守る守備隊なんですね、、根っからの軍隊とそこが違うのかも。


大林組、もうこの頃から活躍してたんですね。


鉄道の買収交渉、杉原千畝さんがやっていたとは!