2024.3.20 産経新聞「満韓あちらこちら26」

喜多由浩 (編集委員) 氏

日本の建築物の話、お城のような外観の物も!

杉原千畝氏のエピソードも。





〝中国人もどこか誇らしげ?〟

 〜100万都市目指した「新京」〜



おじん記者 (還暦過ぎ!) が中国・長春を訪ねたのはもう20年以上も前のことだ。

バスで市内を移動中、日本の城そっくりの建物を見つけ、思わずシャッターを切ったのを覚えている。

後で聞いたら、それは日本陸軍の旧関東軍司令部 (※後に総司令部となる) があった建物らしい。


外観はそのままにして、中国共産党の吉林省の委員会が入っているという。

つまり、省の「最高機関」だ。

日本人が建てた建物にもかかわらず、最高機関が使っているのは、あまりにも立派で荘厳だったからかな?


日本は、日露戦争 (1904〜05年) の勝利によって帝政ロシアから「東清鉄道の長春以南 (後に満鉄線) 」の経営権を獲得。

鉄路と鉄道付属地 (※駅周辺の日本の権益地) を基にして満州経営に乗り出す。

つまり当初は〝点と線〟でしかなかった。

関東軍の前身も、鉄路と鉄道部属地を守る守備隊である。


満洲国建国 (昭和7年) 後、日満議定書によって、関東軍は同国に駐屯し、満洲国軍とともに共同防衛の任にあたることになった。

これによって関東軍は、満州全域 (日本の租借地・関東州を含む) をカバーすることとなり、司令部も、満洲国の首都として長春→新京と改名された地に移された。

城そっくりの建物は、9年に竣工 (施工は大林組) 。終戦直前に日本軍が司令部を密かに南の通化へ下げる決定をするまで、その他にあってにらみをきかせていたのである。



旧関東軍司令部の建物

=平成21年、中国・長春



日本語の説明文


おじん記者の長春訪問に話を戻すと、当時の中国・長春は、目ざましい経済発展の中にあったものの、まだ〝新旧ないまぜ〟の状況にあった。

日本メーカーの技術協力 を得た〝最新鋭〟という触れ込みの自動車工場を見学させられたが、どこかアカ抜けない。

街のど真ん中ではオンボロ馬車に干し草を山積みにした老人が、くわえたばこで、のんびりと移動していた。


中国のGDPが、まだ日本の4分の1程度 (※しつこいようだが、今じゃ日本が中国の4分の1以下だ!) だったころの話である。


訪ねたとき、長春には旧ヤマトホテル (当時は満鉄経営で、後に新京ヤマトホテル) の建物も残っていた。

小ぶりながらも瀟洒な外観はほとんどそのままにして、中国のホテルとして営業中だった。

驚いたのは、そこに現代中国が設置した「日本語」の記念碑 (解説板) があったからである。

さらに驚いたのは説明文の内容だ。


「偽満」というオキマリの非難はあるものの、そのホテルが、元は1909 (明治42) 年に建てられたウィーンセセッション風の満鉄経営の大和ホテルであり、そこには、満洲国の首脳や関東軍の司令官も泊まったこと、などが書かれている文がどこか〝誇らしげ〟に見えたのはおじん記者の気のせいか?

ちなみに日本国内にあるウィーンセセッション風の建物としては東京・神宮外苑にある円いドームが特徴的な聖徳記念絵画館が有名らしい。


ヤマトホテルは、満鉄の初代総裁を務めた後藤新平 (1857〜1929年) が「西洋に負けないホテルをつくれ」と号令をかけて、満州、関東州の各地に建設されたもので、まさに日本のショーウィンドーだった。



つづく〜