2024. 1. 12 産経新聞「話の肖像画」
「母が〜」のヒット、レコ大、紅白にも出たのに…
天国と地獄、、
厳しい世界ですね芸能界は。
〝つかの間の栄光から真っ逆さま〟
《海援隊の「母に捧げるバラード」はヒットが続いた》
売れはしたんですが、自分が狙っているポジションじゃなくて。
コミックシンガーとして扱われ、日本中どこへ行っても「コラッ、鉄矢」って言われるんです。
「そうじゃねえんだよなあ、俺は」という強い思いがありました。
それでも泉谷しげると同じ数ぐらいのお客さんを呼べるようになりました。
するとレコード会社のスタッフが「単独で回れ」って言うんです。日本中を。
そうしてきちんと観客を動員して自分たちなりにステージを作るんですけど、お客さんは「母に捧げるバラード」を歌え、ばっかりなんですよね。
その間、海援隊の2人と一生懸命いい歌を作っていたつもりなんです。
田舎者がたくましく生きていくぞとか、夜になるとふるさとが恋しくなるな、というローカルを含んだ歌です。
嘘だけは作るまい、「街の子」ぶって歌うのは嫌だ、と意地になったところもあります。
その頃、気に入っていたのは「故郷(ふるさと) 未(いま) だ忘れ難く」。
司馬遼太郎の小説「故郷忘れじがたく候」がモチーフです。
朝鮮半島から来た沈壽官の望郷の思いの純度の高さがいいなあと思ったんですよね。
なんとかこれをフォークにできないだろうかって。
今、ありありと分かるんんですけど、司馬作品をフォークソングにしたかったんです。
俺たちは海援隊だという思いがありました。
そんなにお前は偉いのかと言われると困るんですが、司馬作品とは何かと言えば、ローカルなんですよね。
人々が見逃しているローカルを拾っていく。
それが自分たちのフォークソングなんだと思っていたんです。
西郷隆盛を描いたら薩摩の田舎の若者の集団、坂本龍馬を描くと土佐の若者、長州を描いても田舎の若者たち。
司馬さんは都のど真ん中ヒーローをあまり作っていないんですよ。
坂本龍馬はなぜ格好いいのか。
一番わかりやすいのは土佐弁で話すからですよね。
標準語では味が出ない。
「このままでは日本はいかんぜよ」と言ったときに龍馬は立ち上がってくるんです。
「このままでは日本はいけません」じゃあねえ。
薩摩弁の持っている迫力もそうですよね。
「おんは、あん人を斬る」と言うとローカルの持つ大地の匂いがしてきます。
そういうものが今の人たちに求められているはずだという思いがありました。
《「母に〜」のヒットで、昭和49年大みそかのNHK紅白歌合戦に初出場した》
巨大な出来事でしたね。
紅白に出て初めて歌謡曲界の潮流を知るわけです。
横に三波春夫先生がいて、沢田研二がいる、森進一がいる。
その流れの中にぷかぷか浮いている感じがしました。
紅白の直前に放送していたTBSの日本レコード大賞で「企画賞」をもらいました。
すると賞を取った人しか乗れないバスで紅白の会場へ行くんです。
時間がないから。
沢田研二や森進一らそうそうたるメンバーがいるんです。
パトカーの先導付きで。
《しかし人気は長く続かなかった。50年に海援隊はどん底を味わうことになる》
紅白がピークで、そこから真っ逆さまでした。
50年春に兵庫県の市民会館でコンサートをしたのですが、客席が半分埋まっていないんです。
「あらー」でしたね。
そのときだけかなあと思ったのですが、まあ、潮の引くのが早いこと、早いこと。
ぐんぐんお客さんが減っていく。
すると、素人同然の人が次々と意見を言ってくるんです。
「博多弁でもう1曲、作らなきゃダメだ」とか。
辛かったのはタクシーの運転手さんに説教されたことですね。
「このままいくと、おたくら危ないよ」って。
地方を回るんですが、秋口にはスカスカになっちゃうんですよね。
記録は観客10人台でした。
1千人入る会場なのに。
(聞き手 酒井充 氏)
〈どうしても客としては「母に〜」を生で聞きたいと思いますよ、そりゃ。
〝コミックシンガー〟ねえ、、
武田さんの本望とは違っていた、ズレていたんですね。
司馬作品を歌にしたい、そうだったんですね。
YOASOBIが、小説・マンガ等を読み込んで歌にしている、その先駆けですかね。
昭和49年のレコ大と紅白、、今よりもずっと注目度が高かったし力も権威もあり、価値が高かった。
お母さんはじめ、お父さんや兄弟親族一同の皆さんにはそれは喜んでもらえたのでは。
それに関してはここでは触れてないですね、武田さん。
それにしても、1千人の会場に10数人は、、、
武田さんはその後、映画出演、テレビドラマの主演、さらにカップ麺のCM…と、大活躍していくわけですが、その道のりはどんな感じだったのでしょうかね〉