〜つづき
会見や講演などでは、少年法がはらむ問題、犯罪被害者と遺族が司法から完全に疎外されている現実 (事件と裁判について何の情報も与えられず、法廷で傍聴しようとしても席は用意されず、遺影を持ち込もうとしても禁止される等々) を訴え続けた。
本村さんの声は世論を、ついには国も動かし、刑事訴訟法の改正や犯罪被害者等基本法の成立につながる。
裁判の進展はこうだ。
1審山口地裁の判決後、検察側は控訴。
2審広島高裁は14年、山口地裁と同様に無期懲役を言い渡す。
検察側は上告。
最高裁は18年、広島高裁の原判決を破棄して審理を差し戻す判決を言い渡す。
広島高裁は20年、差し戻し控訴審で死刑判決を出す。
弁護側は上告するものの最高裁は棄却。
24年3月に死刑が確定する。
そんな本村さんを9年にわたって追い続けたジャーナリスト、門田隆将さんの『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮文庫) を読み返してみた。
私も年齢を重ね、以前とは異なった読み方ができるかもしれないと思ったからだ。
今回もっとも心に響いたのは次の場面だ。
1審判決後、担当検察官が涙を浮かべながら
「このまま判決を認めたら、今後はこれが基準になってしまう。
そんなことは許されない。
たとえ上司が反対しても私は控訴する。
100回負けても101回目をやります。
これはやらなければならない。
本村さん、司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか」
と口にする。
門田さんは続けて記す。
「この時、本村の頭に初めて『使命』という言葉が浮かんだ」
「単なる自分の『応報感情』を満足させるだけではない。
司法にとって、そして社会にとって、今日の判決がなぜいけないのか、どうしてこれを許してはならないのか、自分も訴えるべきではないか、と思った」
絶望の果てに訪れた「使命」の自覚…。
私たちは「使命」や「ミッション」という言葉を簡単に使うが、「使命」とは全人生をかけるものであり、おいそれと自覚できるものではないなずだ。
以前にも何度か書いたことだが、フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユはこう記している。
《 (恩寵に充されるには) その前に、すべてをもぎ取られることが必要である。
何かしら絶望的なことが生じなければならない。
まず、真空がつくりだされねばならない》
「恩寵に充される」とは「使命の自覚」と言い換えてよいだろう。
本村さんの闘いの核には「使命」がまぎれもなく存在した。
だからこそ世論、そして国を激しく揺さぶったのだ。
ただ、その前段の体験はあまりにも過酷すぎた。
いまさらではあるが、残酷な犯罪の犠牲となったおふたりのご冥福と、本村さんのこれからの人生が幸福に満たされることをお祈りしたい。
〈少年法は悪法である!
それにしても被害者側に対する司法の扱いは信じられない、、ほとんどイジメのようなものではないか。
こんな法律がずっとまかり通っていたから20歳未満の犯罪・犯罪者がつけ上がって、したい放題のことをしてきたのだ。
この光市の事件で思い起こされるのは、少年犯罪史上最悪 (と自分は思ってます) の事件「女子高生コンクリ詰め殺人事件」。
今でもそれに触れると血が逆上するほどの怒りが込み上げてくる、、
被害者、そしてその両親家族のことを思うと、、
この加害者は、少年法に守られ、何事もなかったかのようにすぐに社会に出て結婚し普通に生活。
しかし、その本性は変わらず、犯罪を繰り返している。
犯罪を犯した時点で徹底的な償い (場合によっては極刑) をさせなかったからそうなった、と思ってます。
本村さんの〝自分が死ねば (自殺) 社会も声をあげてくれるかも…〟とまで思い詰めた心境には胸が痛みます。
この筆者、桑原氏同様、自分も同じ立場に立たされたらこの手で殺す…難しければ、全財産投げ出して暗殺者を雇い、必ず殺ってもらう。
それで刑務所に入るのなら本望だ!
と、なると思います。
それにしても少年法もそうですが、司法は完全に加害者側に立っている。
そこには、〝被害者は死んでしまっている…生きている加害者の今後の人生こそ守らなければなない〟という、言ってみれば、唯物論・史観が根底にあるのでは。
多分、死んだらすべてが終わり、あの世なんてない、魂なんてない、という考えが司法界を支配しているのではないか、と思っています。
これは突き詰めれば〝殺ったもん勝ち〟という現実を作ってしまうハズ。
本村さんたちの闘いがあったから変わってきているようです。
しかしまだまだ、、、
この本村さんの闘いはTVドラマになっているようですね、、知らなかったです。
本村さんは、再婚されているとのこと。
まことに、これからの人生が幸福に満たされることを祈願しております〉