〜つづき



1963年から76年までの日記が書き込まれていた手帳と、3冊のノート。ノートは東久留米市金山町に住んでいたときのもので、表に「金山町雑記」とある (藤沢周平事務所所蔵)




再び「遺された手帳」を開いてみよう。


「(昭和48年 ) 7月22日 (前略) 十七日の芥川賞・直木賞選衡(せんこう) で、直木賞が決定。

まだその後遺症が続いている。

小さな雑文の注文とか、問題小説が締め切りをひと月早めてくれとかいう騒がしさで、あまり焦らないつもりでも、いつも忙しい感じが付きまとっている。

違った世界に入ったかもしれない。」


藤沢は43歳のときに「溟(くら) い海」でオール読物新人賞を、45歳のときには「暗殺の年輪」で直木賞を受賞する。

そのころの心情を「半生の記」に書いている。


「再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一編のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くこと出来た。

『溟い海』というその小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。

しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。

そのあとのことは成り行きとしか言えない。」


2つの文学賞の受賞は、着実に藤沢を文学の表舞台へと引きずり出した。

直木賞受賞の翌年には、業界新聞の編集長を辞めて二足のわらじの生活に終止符を打ち、プロの小説家として踏み出す。


そればかりではない。

受賞をきっかけに、結核療養などによって途絶えていた教え子や、友人、知人らとの付き合いが復活し、藤沢の人間関係は一挙に豊かになった。


昭和48年11月、直木賞受賞後に山形県鶴岡市に帰郷して招かれた講演会では、湯田川中学の教え子たちと涙の再会をした。

そのときの様子を「小説の周辺」(文春文庫) 所収のエッセー「再会」に書いている。


「私が話し出すと女の子たちは手で顔を覆って涙を隠し、私も壇上で絶句した。

おそらく彼女たちはそのとき、帰って来た私をなつかしむだけでなく、私の姿を見、私の声を聞くうちにニ十年前の私や自分たちのいる光景をありありと思い出したのではなかったろうか。






暗から明へ  48歳の作風飛躍



湯田川中学時代の藤沢周平 (本名、小菅留治) の教え子、横浜市在住の工藤司朗さんは現在87歳。

小説家デビュー後の藤沢に、作品への率直な感想を伝えていた。


昭和46年 (1971年) のある日、小菅先生が書いた「溟い海」がオール読物新人賞の最終候補に残った──と、静岡市内の会社に勤務するクラスメートが知らせてくれた。

東京・日本橋人形町の会社に勤めていた工藤さんは、恩師の勤務先の新聞社を探し当て、銀座7丁目の居酒屋で20年ぶりの再会を果たした。


以来、時々、この店で酒を酌み交わすようになった。

ある晩、オール読物新人賞や直木賞受賞以降の作品について、工藤さんが感想を述べた。


「小菅先生の作品は、結末が暗くて、読み終えたとき救われない気分になってしまう」


藤沢はきちんと応じた。


「今の俺の心境では、明るい結末の小説が書けないんだよ。もう少し待ってくれない」


昭和51年、「小説新潮」に「用心棒日月抄」を書き始めたころ、「結末が明るくて面白かった」と印象を述べると、ニコッと笑いながら「それは良かったな」と答えてくれたのだ。


藤沢はその前の年の昭和50年1月1日付の「遺された手帳」所収の日記に記している。


「今年の目標は (中略) 行きづまらないためには、飛躍がなければならない。

作風の飛躍というものが、受賞直後から私の頭の中にある。

恐らくそれをつかまえることが出来るかどうかが、私の作家生活の鍵になるだろう。

それがいつ訪れるか、私には全く解らない。

不気味であり楽しみでもある。」


作風の飛躍のためにどうすればいいのか。

もがき続ける中で読者の存在を強く意識するようになる。


「書くことだけを考えていた私が、書いたものが読まれること、つまり読者の存在に気づいたのはいつごろだったのか、正確なことはわからない。

だが読まれることが視野に入って来ると、私の小説が、大衆小説のおもしろさの中の大切な要件である明るさと救いを欠いていることは自明のことだった。」(「小説の周辺」所収の「転機の作物」)


作風が変化したのは48歳。

ユーモアの要素を取り入れた作品「用心棒日月抄」あたりからだ。



つづく〜