〜つづき



予備学校の授業を見守る井内文部次官(右端) 、白金山副校長(その左) 、光田文部省留学生課長(その左) =1979年 (光田明正氏提供、肩書はいずれも当時)




「勉強漬け」の日々


予備学校の教員は日中ほぼ半々で、日本人教員にかかる費用は日本政府が負担した。

1979年入学の1期生は約100人

中国全土から大学の統一入試の成績をもとにして優秀な学生が選抜された。


期間は1年。前期は日本語学習を中心に、後期は、加えて、日本の高校で学ぶ数学や歴史などの科目を日本語で習う。

週6日、6〜7時限の授業がみっちりあった。

全寮制で朝5時半に起床、夜9時半就寝だが、空いた時間も予習・復習に追われる。

日曜日もまたしかり。


早稲田大社会学総合学術院教授 (東アジア国際関係研究所長) の劉傑(61)は、予備学校の3期生 (81年入学) だ。

小学生から現在の北京外国語大学の付属小学校で日本語を学び、北京外大の1年のときに、予備学校の入学者に選ばれる。

「うれしかったですよ。当時の中国では大学生となることすら難しい。

ましてや (西側諸国への) 外国留学のチャンスなんてありませんからね。

集められたのは極め付きの優秀な学生ばかり。

日本語がまったくできない学生も多かったのですが、〝勉強漬け〟の毎日で、1年後には皆がちゃんと日本の大学で講義を受けられるようなレベルになったのです


教育面は「日本式」を採用したため、日本人教員が指導し、中国人教員はサポートに回った。

両国教員は、1年間という短い期間で学生に日本語能力を身に付けさせる目的に向かって協力を惜しまなかったという。


予備学校の客員教授を務めた酒井順一郎の『改革開放の申し子たち』のエピソードを紹介しよう。

《日本人の日本語教員は休日もなく授業に備えていた》

《日本人教師の生活上の面倒も中国人教師が行った…》。

日中双方にとって失敗が許されないプログラムだ。

教員も学生も必死だったに違いない。


日中共同の「成果」


予備学校の学生は卒業前に中国の教育省が行う「統一試験」を受け、その成績などをもとに、日本の文部省が窓口となり東大、京大といった大学の学部生として入学を果たす。

1期生から5期生までの400人弱 (学部生) の中に脱落者がほぼいなかったことは奇跡に近い。

ただし、留学後に中国へ帰国したのは約半数にとどまり「人材流出」の面では評価が分かれるところだろう。


この取り組みに対する劉の評価を聞こう。

「日本の研究環境はすばらしいと思うし、今も日本文化にひかれる学生は多い」

とした上で、予備学校の試みについて、

「日中双方が協力して脱落者を出さず事業を成し遂げたことは両国の成功体験であり、意義深い。改めて『この時期』を検証し直す必要があるのではないでしょうか」。


一方、文部省留学生課長だった光田明正(88)は

「思惑と違ったのか、2年目に中国側は (留学生派遣を) やめたいと言ってきた。

僕は日中は数千年の交流の歴史があるのに、たった1年で評価するのか、と説得しましたよ。

中国人留学生は優秀な学生が多く、日本の学生にも刺激になった。

少なくとも5年間の試みは『成功』だったと思います」。


=敬称略




〈当時、その学生らを見かけたことがあります。服装や髪型がいわゆる〝ダサい〟感じだったのですが、喜び、意欲に溢れた目が印象的でした。


留学生派遣をやめたい…というのは、多分、日本へ行くと中国に帰って来なくなる (400人のうち半分!) ということが原因の一つだったのでは。

当時、日本と中国とでは生活レベル等、あらゆる点で大きな差がありましたから〉