〜つづき
さらに踏み込めば、彼の語りは対外認識にとどまらない。
それは国内政治とも深く結びつく。
「外部の脅威」を強調することで、「内部の結束」を強めるという古典的な政治手法である。
「オリエンタリズム」はここで、外交政策の枠を超え、国民統合の物語としても機能する。
「敵は外にいる」と語ることで、内側の亀裂は覆い隠される。
しかし、この構図に乗ってしまえば、もれなく代償がついてくる。
他者を単純化することは、同時に現実理解を貧しくする。
中東の多様な社会や歴史的文脈を見失えば、政策は短期的で場当たり的なものになりやすい。
実際、ブッシュ・ジュニア政権によるイラク戦争以降の混乱が示すように、「単純な物語」に基づく介入は、しばしば予期せぬ結果を招いてきた。
トランプ大統領のアプローチもまた、この延長線上に位置づけることができる。
彼はしばしば例外的な存在として語られる。
しかし彼を単なる逸脱した存在として片づけてしまえば、問題の核心は見えなくなる。
むしろ彼は、私たちが無意識に共有している思考の癖、物語への依存、他者を単純化する衝動を、極端な形で映しているにすぎないのだ。
過去の産物でなく現在進行の現象
このあたりでモンテーニュに登場してもらおう。
400年以上も前に「オリエンタリズム」と同様の構図に気付き、鋭い警告を発しているのだ。
野蛮と決めつけられていた新大陸の原住民について書いた第1巻第31章「カンニバルについて」こう記している。
《わたしが聞いたところだと、かの民族の間には少しも野蛮なところはないと思う。ただみんなが自分の習慣にないことを野蛮と呼ぶだけの話なのだ。(中略) あそこにもやはり完全な宗教、完全な政体、完全なもろもろの制度習慣がある。
(関根秀雄訳)
第2巻第11章「残酷について」にはこうある。
《野蛮人が死者の体を焼いて食べることはなんとも思わないが、生きている人間を拷問呵責する人たちを見るとむっとする》(同)
死んだ人間を食べることよりも、生きている人間を拷問にかけることのほうがよほど残酷だ、モンテーニュはそう憤るのだ。
せっかくこんな思想家を持ちながら、物質的利益に目のくらんだ西洋は耳を貸すことはなかった。
東洋もアフリカも新大陸も野蛮と決めつけ、「教化の対象」という傲慢極まりない理屈で、各国は植民地化にしのぎを削った。
こうした西洋の野蛮を正当化するのが「オリエンタリズム」であり、その枠内で知の体系が形成されていったのだ。
「オリエンタリズム」とは、遠い過去の産物ではない。
それは現在進行形の現象であり、政治の言葉の中で絶えず繰り返し再生産されている。
トランプ大統領は、そのことを改めて可視化した。
彼の功績はその一点にあるのではないか。
彼の言動を見聞きしながら思う。
私たちはどのような立ち位置の言葉で世界を理解し、どのような物語に安住しているのか、私たち自身も「オリエンタリズム」に骨がらみになっていないか─、そう自問することなしに彼を批判するのは、あまりにも空虚であろう。
〈モンテーニュの〝死んだ人間を食べることよりも、生きた人間を拷問にかけることのほうが残酷…〟という認識には、ハッとさせられた。
言われてみればそれは〝言える〟
死んだ人間はもはや苦しみを表さない、、
生きている人間を塗炭の苦しみに遭わすことのほうが残酷…確かに!
食人は、原始社会ではそれにより亡くなった人の血肉を生きている者が受け継ぐ、みたいな宗教的意味合いがあったやも知れぬし、、また物理的にも飢餓状態が続いていたような場合、やむを得ぬ措置だったかもしれない。
少なくとも憎悪や復讐で生きながら苦しませるということと比べれば残酷とは別の範疇のこと。
もちろん奨励できることではないですが〉