2024. 7. 28 日経新聞「NIKKEI The STYLE」
藤沢周平の日記等からたどる人生。
次々と襲う不幸の数々…
知らないことばかりでした。
〝人気作家へ 中年の逆転劇
藤沢周平の日記をたどる〟
◆憤怒や無念「どこかに吐き出さねば」◆
なぜ、この人の身に不幸な出来事が次々襲うのか。
藤沢周平の若いころの年譜を眺めると、やるせない気分になる。
昭和26年 (1951年) 3月、勤務先だった山形県湯田川村立湯田川中学校の集団検診で肺結核が見つかる。
23歳のことだ。
苦学して手にした中学の教員の仕事は、わずか2年で休職に追い込まれる。
療養生活に入り、25歳で東京都北多摩郡東村山町 (現東村山市) の篠田病院林間荘に転院する。
29歳。ようやく退院。
しかし、湯田川中学には復帰できない。
湯田川中学の元同僚の紹介により、東京都内の業界新聞の記者になる。
業界新聞の記者時代に使っていたカメラ
(鶴岡市立藤沢周平記念館所蔵)
31歳のときに同郷の三浦悦子と結婚して、2年後に長男が死産。
さらに2年後の2月に長女、展子(のぶこ) さんが誕生したのも束の間、8カ月後には妻悦子がガンでこの世を去った。
28歳であった。
ずっと身近で暮らしていた一人娘、遠藤展子さんの著書「藤沢周平 残された手帳」(文春文庫) によれば、藤沢は「(昭和38年) 10月5日 朝、5時20分 悦子死す。下宿で假葬儀。」と記している。
藤沢は当時の心境を自著「半生の記」(文春文庫) に綴る。
「そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。(中略) 田舎でする葬儀に帰るまでの間骨壷と一緒にいると、時どき耐えがたい寂寥感に襲われることがあった。
しかし私はまた、死者がいくらあわれでも、そういううしろ向きの虚無感に歯止めもなく身ををゆだねるのは好きではなかった。
私には子供がいて、感傷にひたっている余裕はなかった。
ちゃんと顔を上げていなければと思った。」
そして小説家への道を進む宣言ともとれる気持ちを表明する。
「しかし胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さねばならないものだった」
展子さんは、父親が負の連鎖から抜け出し、小説家としてデビューするまでの経緯について、「打たれ強さ」「真面目な性格」「再婚」という3つのキーワードで説明する。
結核は、好きだった学校の教員の仕事を奪った。
それでも6年間に及ぶ療養生活に自棄(やけ) にならず、詩の同人誌を発行したり、俳句を学んだりしていた。
母 (悦子) との結婚でつかんだ幸せの絶頂期に母を失い、どん底に落ちても前を向く。
その「打たれ強さ」は驚異的だ。
内面にため込んだ鬱屈をどう吐き出したのか。
そこが「まじめな性格」の父らしく、ギャンブルでもなければ酒でもない。
母が誇りに思っていた小説の執筆をすることで少しづつ吐き出していった。
浮上の大きなきっかけになったのが、41歳での「再婚」だ。
再婚相手の和子は、東京の下町育ち。
飾らない率直な物言いをし、ダジャレを言って笑わせるような女性だった。
業界新聞の記者の仕事や、家事、育児に追われていた生活には、ゆとりが生まれ、休日の小説執筆にも集中できるようになったようだ。
つづく〜