【傷つきやすさを受け入れること】 | ♡meme_gon.♡のblog

【傷つきやすさを受け入れること】




【傷つきやすさを受け入れること】

パンデミック対策の危険を早々から警告していたオーストリアの若い生物学者、クレメンス・アーヴァイが自殺したというニュースが出て、ドイツ語圏のSNSは騒然としていた。本当に自殺だったのかと多くの人が疑っていたようだけれど、いろいろな情報からして、どうやら本当らしい。

クレメンス・アーヴァイは、自然環境や生態系について本を書いていて、メディアにもよく登場していた生物学者だった。それが、パンデミック対策について批判する動画を出してから、主流メディアにいかさま師扱いされるようになったのだ。これは、この3年ほど、多くの誠実な医学者やジャーナリストたちが経験してきたことだ。危険人物扱いされて、解雇されたり、医師免許を取り上げられたり、嫌がらせの家宅捜索を受けた人も少なくない。パンデミック対策は、製薬ロビーにとって莫大な収入をもたらすものだったから、情報統制のためにあらゆるメディアに手が回されていた。その中で、批判的な見解を出す学者たちは、徹底的にたたきつぶされていったのだ。

主流メディアによるこうした攻撃は、政府の対策に批判的な見解を出す人たちは皆受けていたことだから、どうして自殺を選ばなければならなかったのかと批判する人もいた。しかし、この繊細な感性を持つ若い学者が、そこまで精神的に追い詰められてしまったというのは事実なのだ。彼とよく話していたという心理学者のラファエル・ボネリ博士は、ヴィキペディアにまるで過激派の危険人物みたいに書かれたことで、彼がひどく苦しんでいたと言っていた。「言葉で人を殺すことができるんだ! メディアはこういうネガキャンを今すぐやめるべきだ!」と博士は動画で語っていた。その動画も翌日には消されていた。

こんなことも、本当は今に始まったことではなかった。これまで、グローバリストのロビーが隠蔽したい真実を語ろうとした人々は、学者だろうがジャーナリストだろうが、いかさま師、危険人物、精神異常者といった扱いで、口を封じられ、葬り去られていったのだ。だから、そんな扱いを受けても、それはそういうものなのだからと受け入れるしかないというのも事実なのだけれど、そんな世の中にもう生きていたくないと思うのも、また受け入れられるべきではないかと、クレメンス・アーヴァイの死のニュースを聞いて思った。

安全性の確かめられていない薬剤の緊急使用が始まって、すでに2年が経ち、これほど多くの人が亡くなったり、ひどい後遺症に苦しんだりしているのに、いまだにこの薬剤は安全であるということになっていて、危険性を訴える学者たちがいかさま師扱いされている。こんなことをメディアで拡散している人たちは、名誉毀損で訴えられるべきだし、薬事法に違反しているどころか、過失致死、あるいは殺人幇助にさえ当たるかもしれないくらいだ。それなのに、裁判所まで製薬ロビーに取り込まれているらしく、責任が問われないままに、メディアは相変わらずのキャンペーンを続けている。

これまでも、こうしたことで傷ついて自殺した人たちは何人もいたけれど、クレメンス・アーヴァイの死のニュースに多くの人が激しく動揺したのは、彼がその傷つきやすさをそのままに表現してしまったからだったのかもしれない。世の中がますます狂っていく中で、私たちは自分の傷つきやすさを封じ込めながら、生きてきたようなところがある。こんなことは昔からあったことなのだ、これが現実なのだからと、私たちは目の前で次々と起こっていく非道な事態に、感性を鈍磨させることで応じてきた。でも、本当はこんな世の中はあるべきではないと思っていて、こんな世の中にはもう生きていたくないという気持ちさえ、心の奥にある。彼の死によって、多くの人はそのことに気づかされてしまったのだと思う。

彼の死を、無責任だとか精神的な弱さだとかいって批判した人たちは、おそらく自分の中の傷つきやすさを認めたくなかったのだろう。しかし、彼が死によって私たちに示したのは、この傷つきやすさを忘れるべきではないということだったのではないかと思う。人が傷つくようなことを言うことは、誰であろうと許されるべきではないし、誰であろうとそんな世の中に生きることが当然だなどと思うべきではない。この傷つきやすさを受け入れたとき、私たちは自分自身の内なる子供、傷つきやすい繊細な感性を持った内なる子供を認めて、守ることもできるのだと思う。

グローバリストのお金で、誹謗中傷でも何でも書き立てて、正直に生きている人間を精神的に破壊してしまうようなことをしている人たちはあまりに多くて、いったいどうしたらこの狂った状況を終わりにすることができるのかもわからない。でも、つまるところ私たちの意識が現実を作り出しているのだとしたら、私たちがまず、この状況に深く傷ついていることを認めて、傷ついている内なる子供を守ると決めることからしか何も始まらないのじゃないかと思う。繊細な感性を持った内なる子供に、もうこんなことを我慢させるのをやめて、何としてでもこの子を守るのだと決めるしかないのじゃないかと。

私自身、クレメンス・アーヴァイが死を選んだことには、大きな哀しみを感じるし、この人が逝ってしまったことには、もうこの世界は救えないのかというような絶望の感覚すらある。その中で、私は自分自身の内なる傷つきやすさに抵抗していたことに気がつき、その感情を解放することにした。あまりに哀しかったので、そうする以外になかったのだけれど、そこで私は、傷つきやすさこそは愛であり、人を守る力なのだということをまた思い出したのだ。

彼は、森を愛する生物学者で、自分で作曲してピアノを弾いたりするような感性も持っている。決して政治的な人ではないのだけれど、自分が危険を知っていることを、言わないではいられなかっただけなのだと思う。それは、ナイーヴさとも言えるけれど、そうしたナイーヴさを持てない世の中の方がおかしいのだと、そこに立って発言すべきではないのかと思う。とにかく、それによって自分自身の内なる繊細さに寄り添うことはできるわけだし、そうすることで、世の中を変えていくことさえできるのかもしれない。世界はつまるところ、私たちの意識の反映でしかないからだ。

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森のピアノでの自作自演の演奏
https://www.youtube.com/watch?v=PePm6QP7rq0