もうすぐ未年(鴇・卆・123)が終わり、申年を迎えますね。私は2015年といういくつもの区切りが重なる今年に、大きな変化が起こるのかと思っていました。しかし人類規模の災害もなく、色々ありましたがまだ平和と呼べる世の中なのかもしれません。ただ、最終的な線引きがあったのかと思われます。
上野公園さんが八月に更新した記事・牛の糞が天下取るに秘められた「猿顔の神」、猿年に天下取りとなるか???の中に、『猿年は12年に一回は来ます。来年がそうだという確証はどこにもありませんが、私は来年がその創造神自らの天降りによる天下統一の猿年である可能性は高いと踏んでおります。』とあります。
そうなれば、三月三日と五月五日は誠に結構な日となり、そこから草冠に瓜二つのラ神論へ繋がって行くのかもしれません。
そうした時期が迫っているからでしょうか。上野公園さんは豊受大神様から言葉の○と言われていましたが、その○の伏せ字が今朝公開されました。
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言葉は【道】なるか?。鳥の路(道)は「鷺」なれど、【トリ】の言葉の意味を間違えると「詐欺」となる。
聖書のヨハネの福音書にある【初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共に在った。言(ことば)は神であった】は有名ですが、さりとて、このヨハネがどれだけ「言(ことば)は神であった」を理解出来ていたかといいますと、疑わしいところがあります。
それはその後に続く、「この言(ことば)は初めに神と共にあった。全てのものは、これによって出来た。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった」。この部分にあるのです。単に霊的光景を見てであれば、その答えは正解なのです。しかし、それでは事の本質が解っていなかったとなるのです。
私は「言霊」とは何かを知った時、驚愕してしまいました。確かに通常の感覚の解釈であれば「ヨハネの福音書」は何一つ間違っていたとは言えません。しかしながら、福音書のヨハネは完全には言葉の意味が解っていなかったということなのです。為に、そのヨハネからイエスに続く内容は真の「キリスト」に到ることが出来なかったと言えます。為に疑似のキリストの演技となっているのです。
大本教から「いろは」歌が出されました。この「いろは」は「ん」を加えて「四八音」となりますので、日本ではこれを「よ(四)は(八)と(音)」も言います。そこから大本教の演技はキリスト出現前の「ヨハネ」の型であり、「言霊」と呼ばれる存在を世に大きく広げたのは大本教が最初の宗教とは言えるでしょう。西洋人に「言霊」を言っても通用はしないでしょう。
だとすれば、その「ハヨネ(四八音)」の後に、真の「キリスト」が出なければならないわけです。そのキリストとは神は言(ことば)なので「言葉(ロゴス)による真理」と言えます。
その大本教から
命=御言(みこと)が出されました
私達は「命」の字を「いのち」と呼びます。また「みこと」と呼びます。日本の神道では〇○○○命と書いて、〇○○○ミコトと読みます。大本教はその「命」を「御言(みこと)」としたのです。ここに聖書と同様に「この言(ことば)に命(いのち)」があったとなります。
聖書の意味は日本神道の中で生かされていたわけです。私は日本神道界に修業に入って驚きました。それは私は日本神道に「旧約聖書」の世界を見たからです。
一部に「日ユ」同祖論が語られますが、これは現代の歴史では紐解けません。私達が知らない歴史以前にあるのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、自分はナザレのイエスに何一つ負けていないと言われて、自分が「キリスト」であるとか「救世主」であるとか「みろく」であると名乗られました。
しかしながら、自分は「ニセ物」であったとも発表され、本番は自分とは「似ても似つかない存在」だと言い残しておられます。つまり、いくら神界の怪物と言われた出口王仁三郎聖師ですら演じられない役となります。
大本教は「四八音(ヨハネ)」を演じたのですから、本番はその後になります。だが、神界の怪物と言われた出口王仁三郎聖師のような人物を探しても無理なのです。無意味なのです。それは「人」の型をした存在ではなかったからです。だから、「似ても似つかない」となります。
その出口王仁三郎聖師は、聖書の「初めに言葉ありき」に関して、その言葉の部分を「道」の字に置き換えて、【初めに道(ことば)ありき】とされました。
万物の創世の始めに言葉があったのではありません。しかしながら、この言葉(御言)と呼ばれる存在があらりあらゆるものを創り出して来たのです。
それは御言(みこと)が命を吹き込んだ!
そして、その言葉(御言)には私達人類が歩まなければならない[道]も示されていたのです。
そこに来るのが「示申(神)は示し申す」なのです。当然にそれは「言(ことば)」なのです。
しかしながら、私達は言葉を使っていても、どこにその[道]が示されているのか知ることすらありませんでした。
私が神霊世界に修行に入って間もない頃、私に「鷺」が示されました。鷺?。
鷺の字を分解すれば「路(みち)の鳥」です
どうして「路(みち)の鳥」と書いて「サギ」と読ませるのか?。一歩間違えれば「詐欺師のサギ」です。当時の私は首を捻っておりました。そしてもう一つには、サギの様に西洋で天使と呼ばれる者達が羽根(翼)を持っていることです。何の為の羽根だ!?。
私から言わせれば、まったく意味の無い羽根が天使の象徴とされているです。例えば、仏教で「如来」と称される存在がそんなものは誰一人として持ってもいないでしょう。
私が伏見稲荷山で修業時代、スピリチュアルならば泣いて喜ぶ俗に「天使」と呼ばれる者が出て来ました。その時です。私の腹の中からその天使に向かって、「お前の羽根をもぎ取ってやろうか」という太い男性の声が出たのです。
自分の肉体の腹の中から声が出てことにもびっくりしましたが、その天使姿の者はその声を聞くと、飛んで逃げ去りました。後に閻魔庁による天狗の羽根落とし刑も見て来ましたので、いくら天使と称する霊でも羽根落としをするつもりだったのでしょう。その声の主はそうした存在だったのかも知れません。それは私をも叱る唯一の声でした。
私の最初の師匠が「貴方を見て、貴方を恐ろしいと言う霊能者でなければ、それは本者の霊能者ではありません」と言われるので、私のどこが恐ろしいのかと首を傾げておりましたが、私の背後には「閻魔大王」様も居られるので、それが解らぬ霊能者であれば、その方は優秀な霊能者とは言えないレベルだと言うことだったようです。
それで、私は西洋で天使天使と呼ばれている者達は、全て「トリ」違いをしている者達だと気づいたのです。しかし、何をトリ違いしているのかが解らなかったのです。
それは意外なところから解りました。大本教神諭予告。
【出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ。この事解りて来たなれば、三千世界が一度に開くぞよ。綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ】。
【九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ】。
大本教では、最初は「九曜紋」を神旗にしました。次に「十曜紋」を神旗にしました。この「十曜紋」を「九つ花」としましたが、「十曜紋」では「誠」が成立しないのです。
私は大本教神諭が予告した「九つ花」とは何かを何回か出しました。下記の図です。その図から、西洋で言うミカエルとかガブリエルなどは全てトリ違いした霊達と解るのです。
私が大本教神諭に予告された世界に一人知りておる「誠」の者かどうかは別として、何とか「九つ花」は紐解きました。
鳥(十里)は何故に羽根(八根)を持つか?。です

この数理版は「縦も横も斜めも全て369(みろく)ですが、これ以外には「五六億七千万」の数字を出す仕組みは存在していないのです。ただ、それを知るには大本教神諭予告のダルマ大師として現れたで「ダルマ(真理)の七転び八起き」を知る必要があります。
つまり、自分が「みろく」ですと名乗る者は全て「贋物(にせもの)」と判定出来るようになっているのです。とんでもない大仕掛けなのです。ですからこれは、神社や仏閣やスピリチュアルで出て来る様な霊の存在とは桁違いの存在の神があるなのです。
大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【初めに道(ことば)ありき】の「路(みち)」とは、
十里(トリ)の路(ミチ)でもあるのです。
この「路(みち)」を間違えると【迷】に入り、全ては【謎】で終わってしまうのです。
鷺(サギ)でなく、詐欺(サギ)となるのです。
詐欺の詐とは、言葉を詐称する。言葉を勝手に作って称する者達。ミカエルとかカブリエルと称する者達は、神の言(ことば)をトリ違いした者達なのです。そのトリ違いの者達に引っかかるのがスピリチュアルと称している人達と言えるでしょう。
大本教の出口王仁三郎聖師は、ミカエルとは省みるの言葉の意味でミカエルなどという天使長は存在していないと残しておられますが、ミカエルとは言葉の意味なのです。私はヴェーダ典に記載される【人の中にコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める】を体験して、「真理」とは何かの追求に入ったからです。
その時、私が感じたのは【お釈迦様は正しく説かれて、イエスは間違えた】でした。で、お釈迦様とイエスの教えの違いの中に「真理」が隠されているとみたのです。