結局その日、明石は16時から通常通りにアルバイトをしていたが、喫茶店が閉まる時間になっても香苗は戻ってこなかった。いつもはしない店内の掃除を隅々まで終え、賄いをゆっくり食べて時間を稼いでも帰ってこないため、明石は諦めて帰ることにした。
 カバンを持ち、いざ帰ろうとしたところで喫茶店のドアががらりと開いた。
 冷たい風が一瞬、店内に入ってきて、暗闇の中から出てきたのは、明石の幼なじみの塩田さざみだった。制服姿で、紅色のマフラーをぐるりと首に巻き、さらさらと揺れる長い黒髪には雪がついていた。
「さざみ」
 明石が言うと、さざみはにこっと微笑んだ。
「良かった、もう帰っちゃったかなっておもって。一緒に帰ろう」
 亜矢は、さざみの赤くなって震えている手、髪やマフラーについている雪の量を見て、しばらくお店の前で待っていたんだなと思っていた。それは、明石も気づいていた。明石を見て、にこにこと嬉しそうに微笑むさざみは、とても幸せそうであった。そしてこの二人が別れたなんて、と驚きながら見ていた。
「ササミ、良かったらコーヒーでも飲んでいきなよ。温まるよ」
 亜矢はやかんに水を溜め、コンロを点けた。
「先生いいの。明石を待っていただけだから。もう帰らなくちゃ、親が怒る」
 立ち話をしているうちに、喫茶店の前に一台の車が止まった。中から出てきたのは、香苗であった。香苗はなにか短く話をして、すぐ喫茶店の中に入ってきた。明石は、久し振りに見る香苗が現れたことに驚いたが、嬉しさの方が大きいことに気づいた。そして、自然と目で追っていた。
「あ、こんばんわ」
 香苗が短く、伏し目がちに明石に言い、前を通って行った。さざみはそんな香苗を引き止めた。
「あの。あなたが、もしかして、香苗さんですか?」
 香苗は立ち止まり、さざみの顔を一回見て、頷いた。
「やっぱり。明石に話聞いていて、会ってみたいなっておもっていたんです」
「そうですか」
 香苗はすぐ亜矢の元へ行った。
「今日は遅くなってしまって、ごめんなさい。」
 亜矢は「大丈夫よ」と言って、明石を見た。明石は香苗を見ていたが、さざみはそんな明石の顔をずっと見ていた。
 それから2日ほど経った土曜。ランチタイムが終わって自分達も賄いを食べ、亜矢は休憩しながらテレビを見ていた。するとドアがからんからん、と音と共に開き、息を切らせながら走ってきた明石が「ちわーっす」と言いながら入ってきた。制服を着て、デカイかばんを背負っている。学校帰りだった。
「あら?随分早いじゃない。今日夕方からでしょ?」
「そうなんだけど。先生に教えてほしいところがあってさ。古文。」
「えーどこよ?」
「ここじゃダメ。先生んちで教えてよ」
「・・・あ~あんたもしかして香苗ちゃんとおしゃべりしたいのね。でも、残念。今日は出かけてるわよ」
 亜矢がそう言うと、少しガッカリした顔を浮かべながら明石はカウンターに座った。
「香苗ちゃん、おととい以来見てないけど、ずっと2階にいるの?学校はいつからくるの?」
 亜矢は明石にグラスに入ったアイスコーヒーを差し出した。
「うん・・・大体2階に籠もっているわよ。学校は、すぐにでも明石と同じところに行かせる手続きをしたいのだけれど、香苗ちゃんが行きたくないって言うのよ」
「人見知りとかしちゃうから嫌なのかな」
「まぁ・・・あの子は色々な事情があるからね。行きたいっていうまで待とうかなっておもっているわ」
 明石はふーん、と言って、アイスコーヒーを口にした。聞きたいけど、聞いても教えてくれないから聞かないといった感じに胸につっかえているものを残しながら、ただうつむいていた。
「でもまぁ香苗ちゃんって可愛いわよね~。絶対高校に行ったら、アイドルよ。2年はササミで、3年は香苗ちゃん。」
「なんでさざみ?」
「もーあんたは幼なじみだから分からないかもしれないけど、ササミ人気は侮れないわよ。あの子がウチでバイトしてくれたとき、お客さんでファンになった人多いもの。・・・あなた達って、まだ付き合っているの?」
「もうとっくの昔に別れたよ」
 明石は空になったグラスの中の氷をひとつ口に含んだ。そしてこりこり音を立てながら噛んで食べた。
 夕食が終わり、香苗は明石に誘われるまま、1階にある喫茶店に行った。らせん階段を降りている途中、目の前の景色が街灯ひとつない真っ暗闇に包まれていることがとても新鮮で、頬にあたる冷たい風に耐えながらしばらく見ていた。辺り一面、濃くて深い闇が広がり、地平線に沿って遠くの明かりが見えてとてもキレイだった。すると立ち止まったまま前を見ている香苗にすぐ前を歩いていた明石が気づいた。
「どうしたの?」
「いや、真っ暗闇なの、経験したことないから。すごいなって」
「あーそっか。田舎は、こんなもんだよ。まぁ先生んちが特に僻地にあるっていうのもあるけど」
「そう」
 香苗の口から漏れる白い息がふわっと空に舞い上がり、外の寒さがようやく香苗の芯まで伝わり、歩き出した。明石はくすっと笑って、そのまま歩き出した。

 喫茶店はとても小洒落た所だった。外壁はすべて丸太がむき出しで入り口に小さな黒板にチョークで「本日のオススメ」が書かれていた。ドアを開けると鈴がからんからん、と澄んだ音で響き、「いらっしゃいませ」と優しい声がすぐ聞こえる。亜矢の声だ。
「あら、明石。香苗ちゃんにご飯作ってくれた?」
「うん。あ、香苗ちゃん連れてきたよ」
 店内は、カウンター席が八つと四人掛けのテーブル席がカウンター席に沿って四つあった。入り口はこじんまりしていたので、思ったより中が広く感じた。一番奥のテーブル席に3人サラリーマン達が楽しそうに食事をしているのが見えた。カウンター席には食事後のお皿やグラスが2人分残されており、亜矢がせわしなく片付けていた。
 明石は慣れた様子でそのまますぐ横のドアから中に入り、ダウンを脱いで黒いエプロン姿でカウンターに入った。
「香苗ちゃん、さ、カウンターに座って。今お店が落ち着いてきたところなのよ。何飲みたい?」
 香苗は入り口に立ってどこに座ればいいのだろう、ときょろきょろしていたらカウンターから明石が出てきて香苗の肩と掴んで一番手前の席に誘導した。
「さぁ、こっちに座って。ここならお客さんにも話しかけられないから」
 明石はそのままカウンターに残された食器を亜矢に渡し、ふきんでテーブルを拭いた。香苗は言われるまま座り、亜矢を見たらぱちっと目が遭った。
「なによ明石、やたら香苗ちゃんに優しいじゃないの。」
「俺は可愛い子には優しいんです」
「あら?私、一度も優しくされたことないけど?」
「はぁ?!何で先生に優しくしなきゃいけねーんだよ」
 明石と亜矢の掛け合いが実に息がぴったりで、香苗は漫才を聞いているようであった。
「ボクは年の離れたオネエサマにはお優しくできませぬ」
「まあ。香苗ちゃんだって、お姉さまよ、ねぇ?」
 亜矢は香苗に相づちを求めた。香苗はそのとき初めて、明石が自分よりも年下ということを知った。
「えっ香苗ちゃんって・・・いくつなの?」明石は驚きながら香苗に言った。
「17。今年18」
「え~!小さいからてっきり同い年か年下かとおもった。俺、17歳。2年生なんだ。馴れ馴れしく話しかけて、すみません」
 明石は急に改まって言った。香苗はそんな様子がおかしくなって微笑んだ。
「別にいいよ。ここでの先輩は、あなたでしょ?」
 香苗は明石の顔を見て、にこっと笑った。