任天堂
MOTHER3

先ほど、号泣のうちにクリアしました。

やっぱりいいですな、MOTHERは。

正直な話、2の半分程度のボリュームなので物足りなさは否めないのですが、それでも面白いことには変わりありません。

ここまで、「変わらないこと」にこだわったゲームは皆無でしょう。

システムもグラフィックも音楽も、つまり、雰囲気を一切変えずに違うゲームを作る。

至難の業だと思います。

これを成し遂げただけでも12年待った甲斐はありました。

4は作らないということなので、これがシリーズ完結編です。

「エンディングまで泣くんじゃない」で始まったMOTHERですが、3では最初から最後まで泣きっぱなしでした。

多分、こんなゲームは二度と生まれないでしょう。

ゲームを好きでよかったと心の底から思いましたよ。

http://www.uniqlo.com/L4/getitem.asp?hdnItemMngCD=u36350


ユニクロとのコラボレーションで荒木飛呂彦デザインのTシャツが発売しているという情報をネットで見つけ、速攻で買いに行く。

震えるほどヒートなデザインにむせび泣く。

ズギュューーーーン!!

あまりにも神々しくて買ってから一度も袖を通していません。

もう一枚買おうかしら。


仕事の休憩中に新聞を読んでいたらこんな記事が載っていた。学校指定の革靴を履いている学生に外反母趾が急増している。医師に相談したら「靴を変えれば治る」と言われたので学校側にその旨を伝えたところ、「校則で決まっているから無理」と拒否された、という記事である。

正直なところ、意味が解らない。

学校指定の靴を履きたくないから言っているのではない。病気の治療の為の発言である。

それなのに、「その程度のことは我慢しろ」と言われた人間もいるらしい。

ちなみに、私の経験ではそういう発言をする教師はサンダル履きであることが多い。

日本ではこういう光景は日常茶飯事だ。

営業マン時代、一日8時間以上外回りで歩くのに革靴以外認められなかった。結果、足はマメだらけになり靴下は血膿でぐちゃぐちゃだったが、外回りをしない上司は社内でサンダルを履いていた。

別に足下の問題だけではない。

学生は校則で頭髪から服装から所持品まで厳しく決められているが教師は自由である。

毎日ジャージでサンダル履き、髪はぼさぼさという教師は珍しい存在ではないだろう。

外見が内面を現すというのは日本独自の考え方だと思う。

日本は古くから階級や職業や身分によって外見が決められてきた。

頭髪だけで既婚や未婚、成人未成年の区別がついた時代もある。

その名残が今も続いているのだろう。

全くもって馬鹿馬鹿しい。

外見で内面が決まるなど本末転倒であるし、外見を変えたところで内面は変わらない。

ところが、ここには困った逆転現象があって、いざ外見を自由にしてしまうと困る人間が多いのである。

日本人ほど奴隷に向いている人種はいないという評価もうなずける。

かく言う私は、外見も内面もどうでもいいと思っている。

変化するものを確定しようとする行為ほど愚かなものはない。

サイト上のテストします。

死についての議論は今も昔も変わらずに続いているが、それを権利として法制化する動きがある。

馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

死は、権利や義務ではない。

単なる現象であり、結果だ。

意識を失い、回復の見込みがない人間に対して尊厳死や安楽死の問題を突きつけることはすでに間違っている。

私たちは例外なく死ぬ。

今生きている生命は、生きているがゆえに必ず死ぬ。

それは確定している。

私の好きな人も、私を傷つける人も、私が一生会わない人も、そして、私自身も、必ず死ぬ。

この世界には、生きているものしか存在していない。

それなのに、世界は、人間は、死を特別視しすぎる。

普通のことなのに。

当たり前のことなのに。

何とかして死を忌避しようとしすぎている。

私は、積極的に死にたいとは思っていない。

しかし、死ぬ時は自分の意思で死にたいと思っている。

満足して、自らの命を絶ちたいと思っている。

でも、これって権利じゃねえだろ。

政府が決めることじゃねえだろ。

死ぬ死なないを国家が決めるのって滑稽を通り越して不愉快でしょう。

死にたいやつは死ね。

生きたいやつも死ぬ。

それが人生ですよ。

死を悲しむな。

終末を憂えるな。

終わりは完成であり、希望や未来に繋がる事なんだから。

たのむから好きに死なせてくれよ。

絶望して死ぬつもりはないから。

戦争で最も多い死因はフレンドリファイヤだと言う話を聞いたことがある。

フレンドリファイヤとは、味方からの誤爆だ。

味方に撃たれて死ぬのが死因として一番多いと言うのは皮肉な気がするが、納得も出来る。

実生活においても家族や友人や知人や同僚からの攻撃がほとんどだ。

見知らぬ他人が攻撃してくることは稀である。

身内の何気ない一言が、心に最も突き刺さる。

今日もフレンドリファイヤを受けた。

もちろん、私のことを考えての言葉だとは思うのだが、無傷ではない。

なるべく、自分はフレンドリファイヤをしたくないものだなと心に誓う。

私は敵しか撃ちたくないし、撃つ時は容赦したくない。

殺意も持って、きちんと殺したい。

よく恋人同士が「運命の出会い」等と称して二人の出会いを神格化するシーンを見かける。

確かに、確率論的に観察してみれば二人が出会う確立は限りなく低い。

しかし、ここにはトリックがある。

出合った後に観察しているからだ。

出会う前に観察するなら二人が出会う確立は無限大に減少する。

地球の人口で割れば60億分の1だが、時間と位置も加えれば出会う確立は限りなくゼロに近い。

しかし、出会った後に観測したならば、出会う確立は100パーセントである。

出会ってから観察したのだからそれは当たり前である。

確立は予測にしか対応しない。

出会ってしまったのならそれは結果であり現象にすぎず、運命でもなければ必然でもない。

なのに、現象そのものに予測を当てはめるから観測結果がおかしくなる。

運命の出会いなんてないんですよ、数学的には。

では、これは文学的なのかというとそうでもない。

あえて言うなら、感傷的なんですかね。

馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

だから、運命っていう言葉はあんまり好きではありません。

私は色々好きな人と出会いましたが、それは運命でもなければ偶然でもありません。自分で勝手に好きになって自分で勝手に選んだだけです。

それ以外何もありません。

なんだかよく解らない見えない何かに操られて自分のパートナーを決定したいとは思いません。

総て自分の意思です。

運命なんてクソ食らえ、だ。

今週のからくりサーカスで、ついに立ち読みにもかかわらず涙を流してしまいました。

読み終わった後、ダッシュで本屋から逃げる。

最近のからくりは本当に卑怯です。

あんな話描かれたら泣かないわけないだろ。

角川エンタテインメント
ソウ2 DTSエディション

遂に警察は謎の殺人鬼「ジグソウ」のアジトにたどり着く。

しかし、そこにいたのは余命いくばくもない末期癌患者だった。

男はたどり着いた刑事に語る、「お前の息子はどこにいる?」。

アジトには複数のモニタがあり、そこには複数の男女と共に刑事の息子が写っていた。

「さあ、ゲームをしよう。ルールは簡単だ。私の話を最後まで聞けば、息子に逢える」

そうして男は、どうして自分が「ジグソウ」になったかを語りだす。

一方その頃、部屋に閉じ込められた男女8人の下に「ジグソウ」からメッセージが届く。

「さあ、ゲームをしよう。この部屋には遅効性の毒ガスが充満している。二時間もすれば君達は死に到るだろう。死にたくなければどこかに隠されたワクチンを入手するしかない」

次々に現れる死のゲーム。生き残る為にはそのゲームをクリアするしかない。

果たして、彼らは生き残ることが出来るのか。


いや、これは本当に面白い。2の方が面白い映画って珍しいのではないだろうか。

とにかく、オープニングから超クール。

そして、物語の後半から始まる怒涛のどんでん返しの連続はまさに圧巻。

未見の方は是非1と一緒に見ることをお勧めします。完全に繋がってるから。

3の製作も決定しているそうで、そっちも楽しみ。

姉歯元一級建築士の妻が飛び降り自殺と言うニュースを見た。

正直な話、まあ、死にたくなるだろうなとは思ったが、あんたが死ぬ必要は全くないし、死んでも何の意味はないよとも思った。

加害者と被害者の境界をはっきりさせるのはとても難しい。

だから法律があるのだが、法律だって総てにおいて完璧であるわけではない。

あまりにも複雑で、そもそも、ゲームやまんがのように諸悪の根源がないのが普通だ。

悪意に、根源はない。

だって、みんな自分だけは正しいと思っているから。

ある小説にこんな一節がある。


世界は優秀に厳しい。世界は有能に厳しい。

世界は綺麗に厳しい。世界は機敏に厳しい。

世界は劣悪に優しい。世界は無能に優しい。

世界は汚濁に優しい。世界は愚鈍に優しい。

『クビキリサイクル 西尾維新』


悪意とは、善意から生まれることがほとんどだ。

自分は正しいと、自分は優れていると思うところから悪意は生まれている。

真の悪意は、正しさや、公正さや、平等さや、純粋さや、優しさから生まれている。

だから、私は間違ってみようと思う。

普通とは違うことを考えてみようと思う。

自分の意見で誰かが死なないように、少数派になろうと思う。

正論を言って誰かが死ぬぐらいなら、お前は間違っていると言われた方が何倍もましだ。