秘密の共有と仲間意識と疎外について | You continue to conceal very important secrets

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ハイデッガー「ヒューマニズムについて」
「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである」


ジョルジョ・アガンベン「ホモ・サケル」参考

「人はどのような仕方で言語活動をもつのか?」という問いは、「特定の人間はどのような仕方でプライドを持ち、社会の中で位置づけられ、都市に住み着いているのか?」という問いに正確に対応する。


言語活動もエスを締め出しの内に保つ。というのは、人間は語るものであることで、エスを排除しているからだ。言語活動に先行するものとして措定されるあらゆるもの(非言語的なもの、口では言えないものといった形で前提されるあらゆるもの)は、言語活動の前提にほかならず、そうしたものはそれ自体、まさしく言語活動から排除されることで言語活動との関係を維持される。


村上春樹「スプートニクの恋人」参考
藤田信之の様々な表現に共通しているモチーフ(動機となった中心思想)は、明らかに

<こちら側>とあちら側の関係

だった。

そこでのやりとりや、

【正常な応答を拒否してくる壁との闘い】

の姿だ。
それは普通の読解能力があれば多くの人に読み取る事ができる。

だからこそ藤田信之は本と共に机に向かい、長い時間をかけて沢山の表現をしたのだろう。
村上春樹の表現を借りるなら、藤田信之は他者の表現を参考にしながら沢山の文章や絵などを書くことをとおして、内的イメージを表現しようとしたのだ。


小此木啓吾「人間の読み方つかみ方」参考
仲間意識で連帯したい者の秘密を誰に話し誰に話さないかによって、仲間内とヨソモノの区別が分かれる。どのような環境でも、仲間意識で連帯したい人たち
にとって、ある秘密を仲間の誰に話し、誰に話さないかというパターンができあがっている。
そして何人かで秘密を共有し、そのグループ以外には漏らさないことによって、そのグループは同志的な結合関係をもつ。これが仲間内である。それ以外の人間はヨソモノであり、警戒の対象になる。
昼間は学校や職場で何事もないような顔でつきあっているが、重要事項の多くは、根回しや決定が事前にこのネットワークによって内の中で決められている場合が多い。こうした場合、権力者側の内の中に属する者と、ヨソモノとしてこの情報網からはずされる者とに分かれてしまう。
警察の力を使った情報の収集は重視され、その入手した秘密の情報は仲間内で共有する事も重視されている。
ウチとソトの論理が引き起こす集団心理の一つが、スケープ・ゴート(いけにえの羊)である。集団が団結力を強めようとすればするほど、お互いに良い面で結束しようとする。お互いが同じ集団のメンバーであることによって、お互いをウチワとみなし、ヨソモノよりも良く思おうという心理作用が働く。
しかし、どんなに良く思おうとしても、お互いの中には必ず何かしらのネガティブな面が起こってくる。それをある程度否認することによって、団結力を強める。この場合、そのネガティブな部分はどこかで処理されなければならない。そのためにスケープ・ゴートを集団内につくる。つまり、同じ集団の中にウチワとヨソモノをつくる。
一般に集団というものは、集団の外に敵を見つけて、その敵に対して憎しみを強めれば強めるほど集団の内部は団結していく。ところが、その集団内部の感情の吐け口として、今度は内部にスケープ・ゴートをつくるということになる。たえずその両方の作用が同時に働いている。


小此木啓吾「秘密の心理」参考
◆サディズムの心理
科学警察犯と連帯している人たちは、<下>に留めたい相手が世間に対して一生懸命隠しておこうとしていた、さまざまな感情や欲望やときには具体的な秘密、あるいは世間に知られたくないさまざまな弱みを暴き出そうとする。
科学警察犯と連帯している人たちのサディズムの手段になりやすいものの一つが、<下>の位置に留めたい相手の「見せかけだけ」としたい文化的活動に隠されたスキャンダルふうの秘密の暴露である。科学警察犯の標的になった<下>に留めようとされる存在は、そのプライバシー剥奪の結果生じた秘密の暴露にうろたえ、それまでの威厳を支える自我理想が傷ついてしまう。
サディズムの暴力には相手を<下>に留め、社会生活を送ろうとしている人の権威を失墜させ、<下>に留めたい相手の人間的弱さを暴露する快感がひそんでいるのだ。

◆いじめのサディズム心理
この場合、いくらいじめても、科学警察犯と連帯した人たちが期待しているような人間的な弱さがあらわれてこなければ、サディズム心理は目的を果たすことができない。最後まで毅然とした態度をとり続けるとか、抵抗に屈しないとか、その人物の人格のアイデンティティ感覚が強烈に相手に伝わる場合には、サディズムはサディズムにならない。
それだけにいじめる存在の側でも、いじめによって隠された弱さが露呈する可能性がありそうな弱そうな個人を選ぶ。

◆都市化現象と人々の無名化
2ちゃんねるのような匿名掲示板は書き込んでいる側は、誰がどんな表情とどんな気持ちで書き込んでいるか分からないし、全く顔をあわすこともない場合がほとんどである。出入りも自由である。どんな書き込みをしようと、誰にもわからない気になれる。
都市生活や2ちゃんねるの書き込みの気楽さ、魅力は、まさにこのような意味での無名性、あるいは自己消滅の状態を楽しめることにある。

◆アズ・イフ的な自己の分裂
ネットの匿名掲示板2ちゃんねるでの活動なども通信の秘密とネット接続環境のプライバシーが保障されている限り、その傾向を助長し、反ユダヤ主義者にとって<ユダヤ>差別地味た
思想や言論活動に染まった人の、<ユダヤ>的存在に対する、匿名掲示板上の自己矛盾した言論活動と、<ユダヤ>に対する精神的締め上げのような音声などによる間接的な行為も、ユダヤ差別地味た人たちによる、<ユダヤ>的存在に対する人権侵害、プライバシー侵害活動・通信の秘密の侵害の事実を隠蔽した、無内容な言論活動である。

◆“フォーカス現象”は村的世界への回帰
おそらく“フォーカス現象”は、マスメディアを媒介にして、もう一度一部の人に対して村的な世界での首尾一貫性の強制へと運ぶことを望む社会心理を背景にしているに違いない。
つまり、それは、都市化現象や掲示板上の匿名性に伴う無名化と、アズ・イフ・パーソナリティ化の恩恵に浴しながら、他方で、それに伴う一部の人への科学警察やマスコミによる監視社会での情報閲覧を介した、私生活の私的領域にまで踏み込んだ、個人の発言やモラルに求める公的/私的態度の切り崩しによる首尾一貫性の強制である。

◆現代人の憶測集団心理
憶測は憶測を生み、噂話がひろまるが、勝手な情報拡散を防止するために、科学警察による「情報管理」と称した情報統制と<ユダヤ>的存在に対する監視と分析とプライバシーの軽視の強化が行われているのだろう。

さらにこの時代風潮に居直るか迎合する形で、ふざけ、風刺化し、蔑み嘲笑する心理がひろがり、あらゆる人間の営みに深刻な影響を与えている。
特にプライバシーを軽視された人が親密な対人関係を持たない孤立した人で、誇りの基盤となる確かなものや正常な自尊心や自分に対する健全な愛が不足している人の場合、心的被害は深刻なものになる事が誰にでも容易に推測できるだろう。



小寺聡「もういちど読む山川倫理」から
争いを生みエスカレートさせる要因の一つには、異質な者を排除しようとする、人間の心理がある。
人間が集団を形成すると、そこに「ウチ」と「ソト」の差別の意識が生まれる。共通の文化や伝統をもつ仲間のウチの集団は、自分たちとは異なる文化や伝統をもつ他者を異質なソトの集団として排除しようとする傾向をもつ。ソトの集団を異質なものとして排除することによって、ウチの集団の同一性を主張し、結束を高めようとする。哲学者のベルクソンは、そのような排他的な集団を閉じた社会と名づけている。
他者の集団への差別には、自分たちの集団を正当化しようとする心のメカニズムが潜んでいる。ウチの集団の優位性を主張するために、ソトの集団が劣っていると決めつけ、差別や蔑視を行う。
そこでは、自分たちがもつ悪や弱点などのマイナスのイメージを他者に投影し、他者を攻撃することによって自分たちの正しさを主張するスケープゴートの心理が働いている。スケープゴートは、他人の罪を身代わりとなって背負う者のことで、『旧約聖書』に由来する。このような閉ざされた心が、戦争や民族紛争をエスカレートさせる要因となっている。


中山元「思考の用語辞典―生きた哲学のために」から
お前を俺達のメンバーとして認めない。ここから出ていけ。排除する(exclude)とは、ある共同体からこんなふうに放逐することだ。たとえば仲間うちの部活動から排除する。

暴力はぼくたちにとってもごく身近なものである。知らず知らずのうちに他者に暴力をふるっているかもしれないからだ。たとえば僕たちは学校で、親しい友人たちとグループを作る。そのときそのグループから排除された他の人々がいる。親しいグループを作るという友愛の行為の背後で、知らないうちに他者を排除し否定する暴力を行使しているかもしれないのだ。



悪意の不快とは、たまたまある人の不興の対象となっている人々によって享受されていると想像される幸福を考えることによって生みだされる不快である。それは悪意または反感の不快、悪意ある感情または反社会的感情の不快とも名づけることができる。


悪意の幸福感とは、悪意の対象となりうる存在が受けると想像される苦痛や不快や不幸を考えることから生まれる幸福感である。



村上龍「龍言飛語」参考
親しくない、あるいはその人に対しての情報がない場合は、どんなことだって笑えるということだ。
人間というのは知り合いが集まって、小さな部族とか仲間を作って生活してきたわけだよね。人間は一人だったらネズミ一匹、ウサギ一匹捕まえられない。だから助け合って生きてきた。その助け合いの輪の外にいる人間としか戦えないと思うんだ。
人間の中には他人の不幸を喜ぶ習性がある。そのときの他人というのは、必ず外部の人間、仲間の外の人間だ。
「ひとの不幸は面白い」という言葉の裏には、そういう非常に重要なテーマが含まれている。

 

村上龍「誰にでもできる恋愛」から

名乗り出る、という言葉があるように、名前を名乗ることには大きな意味がある。それは、自分の全存在をかけて相手と対峙するという覚悟の表れだからだ。
匿名による訴えにどの程度の信憑性があるのかわたしにはよくわからない。もちろん匿名でなければできない訴えというものがあるのは理解できる。



宮台真司「よのなかのルール」参考
「同じ国民だから仲間だ」などとは言われず、「仲間を殺すな」といわれても、「こいつは仲間じゃねえんだよ」という感性も存在する。「仲間」だと感じられるのは、感情に訴えかける魅力が感じられ自分の自尊心が満たされる範囲、つまりかなり小さな範囲に縮んでいる。こうして「仲間」の範囲が縮んでくると「おまえは在日、韓国人、朝鮮人、外国人」といった表現を使っての印象操作が行われ、疎外された人に対して「おまえ誰?」だの「統合失調症患者」だの「危険人物、異常者、知能がかなり劣る者」といったレッテルをはり、

「外患誘致罪や内乱罪を適用し死刑にしてもいい」「たとえ違憲でも妄想として処理できるなら令状なしの家宅捜査や私生活の見世物化をしてもいい」「軽蔑の対象とする喜劇に仕立て上げたい」「つけあがって自爆希望」
といった判断がくだされ、毎日匿名掲示板2ちゃんねるで韓国人への民族差別などを経由した過激な侮辱が行われていたりしても、
「だから何なんだよ関係ねえよ」「おまえの事を必要としている人なんていないと思うから氏んでもいいと思うよ」
という認識も存在するようになる。
「仲間以外はみな風景」「仲間じゃなけりゃ人も野良犬も害虫もガベイジ(生ゴミ)も寄生虫も同じだ」とばかりに、仲間でない者に対して排他的な言論が占めることになる。
「みんな仲良く平等だ」だと内輪で揉め事が起こるから、連帯の紐帯が薄い被害者にプライバシーの軽視された生活を強制させておき、比喩を使って2ちゃんねる上の言葉や音声で締め上げ、些細な異常行動も発見できるようにしておく必要があると判断する者もいるのでしょうか。



和田秀樹「人間関係は「感情」で動く」参考
仲間意識はわたしたちの人生を楽しくさせるために大切なものであり、仲間意識がわたしたちのこころを弾ませたり、意欲をかき立てたりしてくれます。
それと同時に、仲間意識には怖い側面もあります。仲間と認識していない相手がどんなに酷い状況に置かれていても、関心がはらわれず、仲間内の人間には働かせる倫理的判断も停止させることもあるのです。
魅力が感じられないと判断されてしまえば、論理も発言内容も心に入らなくなります。魅力が感じられないと判断された相手がどんなにムチャクチャな待遇を受けていても、閲覧者は「だから何なんだよ関係ねーよ。俺は俺の勉強や仕事で忙しいの!」と受けとめてしまいます。
その結果、「魅力が感じられない人はバカで、死のうがどうでもいい」と感じてしまうのです。
こういった話で関連する思想用語は、ルネ・ジラールのスケープゴートとジョルジョ・アガンベンのホモ・サケルだと思います。
他者がスケープゴート、またはホモ・サケルとして扱われているときに、「いくらなんでもこれは異常だ、反対しよう」と個人的に主張するのは大変勇気がいることです。


宮台真司「きみがモテれば、社会は変わる」参考

最後に勝つ、つまり幸せになるのは、どんな人間ともつながれるヤツ、ネットワークを通じて人を幸せにできるヤツ。つまり、「他人も自分も幸せになる」ために不可欠な力をもつヤツだけだ。
自分が少々頭がいいことより、自分より頭のいいヤツに助けてもらえるほうが大切です。自分が腕力が強いのもいいが、自分より強いヤツに助けてもらえるほうが大事です。


人から理解され、肯定され、承認されるという感情的な安全は、自分にとって、そして相手にとって「生命の安全」さえ保障します。孤独死や無縁死を考えてみてください。たとえ何かでいきづまっても、当人が周囲から受け入れられていると感じること。「自分は生きていてもいいんだ」と思えること。人が幸福に生きられる社会には、必ずそういった〈包摂〉があるのです。
〈包摂〉のない社会では、人は幸せになれません。同じように〈包摂〉によって人を幸せにする人間、社会貢献的で、利他的である人間だけが、みずからもまた幸せになれる。


mixi境界と侵犯コミュニティ

「スケープゴート/羊の群れ/羊飼い」トピック

2011年01月10日 03:50

さっき、川上未映子の「ヘヴン」を読み終わりました。
「書を持って街へ出よう」ブログに書いた感想を載せてみます。

いじめがテーマの小説。
スケープゴートは恣意的に選ばれる、仕返しをまねくような親密な共同体の絆が、犠牲者に欠けていることが必要なだけである、というようなルネ・ジラール関係の本の言葉を思い出しました。あと、いじめにはそれが行なわれている事実を知りその状況を変えようとする良識を持った第三者の介入が必要なように思いました。
物事の善悪とそれをするかしないかの判断は関係なく、ただ欲求があるだけでその欲求の実現のために他人をどれだけ巻き込み自分の都合のよいように事を運ぶができるかだけだ、というのは、魅力がないために他人を引き寄せる力を持たず攻撃されても反撃しない人はやられるがままになる、という現実を感じさせられました。
コジマは最後どうなるのか、読者の想像にゆだねているところがある。
百瀬という登場人物の姿はイケメンを想像してしまう。乙一の「GOTH」の主人公のような。


2012年05月31日 21:09

どこに行こうと人間というのは似た者で、運命的にスケープゴートとして扱われ傷つけられ追放される、という体験を繰り返す人がいるのではないかと思います。
そういう人は、追放する側に対して仕返しをするような親密な人間関係の絆を共同体内で築いてない、という特徴があり、スケープゴート役は誰でもいいわけではないように思います。
ある程度共通する基準で仲間を作りやすい人と仲間を作りにくい人がいて、仲間を作るには、他者がその人に自我理想となるような魅力を感じ取れるか、という条件が必要なのではないか、と思います。
誰に対しても無条件で愛したり、尊重したりするというのは、ヒトとしての性質上不可能ではないかと思います。



山形浩生参考「科学警察犯のやっていることは文章に書くと、精神科医療と連帯し妄想として処理しようとする人からすると、「あなたは統合失調症じゃないですか?」となるところがミソ。 これも科学警察犯の戦略の一つになってるわけよ。科学警察犯が信じられないことをするから効果があるのであり、それに気づいた<ユダヤ>が騒ぐと、今度は「あなたは精神異常です。統合失調症です」と、偽の病名デッチあげる。まったくもってトンデモねーやつらですな。 ちなみに、科学警察犯がやっていることが判ると、2ちゃんねる上の奇怪なAA(警察アート)や南北朝鮮・在日や女性差別がなぜ行われるのか、非常に納得がいく。彼らの奇怪な行動にはちゃんと理由があったんだな、と始めてわかる。
権力にものを言わせ、嫌がらせをすれば、絶対に屈服すると思っているところが反吐が出る。確かに、<ユダヤ>には軽視される言動があったことも認めるが、どう実社会とうまく接点をもたせるか? という、いい方向に誘導するような考え方が科学警察犯には足りなかったのではないか? 嫌がらせをすれば屈服し、遠隔操作の強制自殺してくれればいい、という考え方が強かったのではないか。藤田信之などは、遠回しの過激な精神的虐待の対象となっていたのに、過去の記憶を抑圧して精神的に立ち直り学生生活を送っていたわけであり、藤田信之も指導と承認の言葉次第では、ちゃんと実社会と接点をもち、健全な道を歩むことは可能だ、ということを示しているわけである。
科学警察犯のやみくもに、人に嫌がらせし、それで死んでくれればOK、もし嫌がらせの仕組みに気づいても、統合失調症にデッチ上げでは、いずれ、藤田信之が公開している科学警察犯の言動と共に、そのデタラメぶりが社会問題となり、そのヤリクチが大々的に叩かれ、組織としての終焉をむかえるのも時間の問題だろう」



田口ランディ参考「身近なひとほど感情コントロールがきかなくなるのは、自分が親しみを感じ近い存在だと感じるものがあるためでしょうか。怒ってる人は愛情深い人が多い。愛が深いから理不尽への怒りも大きいんだろう。そして愛情は所有と交わらない行為だから、人の私生活や個人情報や私信を盗み見し公開する事に同意し、妄想として処理し属領化し、自分たちのものとして、直接面と向かって対話の相手にならないのは愛情のない行為ではないでしょうか」
藤田信之「愛情に基づく人間的な対話は、無干渉と無視と正常な応答の拒否とは交わらない行為。直接面と向かって人間的な対話をせず妄想として処理して誤魔化すのは、愛のない行為に思えます。サプライズでの祝福があるかのように装うのは、プライバシーを軽視された待遇を受けている、仲間内の情報ネットワークから外された者に対する情報の隠蔽の正当化の行為ではないでしょうか?」



山川出版高校倫理用語集から

◆神の愛(アガペー)
アガペーは、ギリシア語で愛を意味するが、キリスト教においては神がすべての人間に平等に与える無差別の愛、無条件の愛をさす。イエスは、天にいます父なる神は悪人にも善人にも日をのぼらせ、正しき者にも不義の者にも雨を降らせて、すべての人を平等に愛する愛の神であると説いている。神の愛(アガペー)は、神にそむいた罪人である人間をも救う神の無償の愛、つまり見返りとしての対価を求めない、恵みとしての与える愛である。神の愛に生かされた人間は、その神の愛にこたえるために神を愛し、隣人を愛するべきである。キリスト教の教義においては、神の愛は人類の罪を贖うために身代わりとなって十字架上で犠牲になったイエスの贖罪の行為において、明らかに示されている。

◆隣人愛
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という、イエスの説いた愛。神の愛(アガペー)に生かされた人間は、その愛にこたえるために、神の愛にならっておのれの敵をも含めて、すべての人を平等に愛するべきである。隣人愛は、人生で出会った人の呼びかけに応じて、救いの手をさしのべ、その愛によってすべての人をみずからの隣人へと変えていくものである。キリスト教では、神の人への愛、人の神への愛、人びとの愛など、無差別で無償の愛はすべてアガペーと呼ばれる。

◆慈悲
仏教における普遍的な命への愛のこと。慈(マイトリー)とは、いつくしみであり、他者に楽しみを与えること。悲(カルナー)とは、あわれみであり、他者の苦しみを取り除くこと。人間に限らず、動物や草木に到るまで、生きとし生けるものすべての幸福と平和を願う心。仏陀は我執やものにとらわれる心を捨て、進んですべての生命を愛することを力説した。