「境界と侵犯」コミュニティ
「外部との交通」とぴ
灰人@スキゾキッズ 2011年08月03日 23:13
浅田彰は「構造と力」で繰り返し書いていた二項対立図式に「逃走論」では否定的で、「逃走論」では「外部との交通」という考えが賛美されているように思いました。
それって簡単な言葉で言えば、「スケープゴート、排除された人、異質な人、疎外された人、仲間意識の外にある人ともっと関わろう」という意味じゃないかな、なんて思いました。
浅田彰「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」から
構造化され得なかった部分、構造の外部にとり残された残余の部分が必ずや残ってしまう。となると、ここでいわゆる弁証法的思考というヤツが介入して、構造とその外部、秩序と混沌、中心と周縁、表層と深層、といった対の演ずる弁証法的な劇として現実の運動を了解しようということになってくるわけです。
具体的にいうと、このパラノイアとスキゾフレニーの対比というのは、たとえば住むことと逃げることの対比としてとらえてもいい。
人類は何千年にわたって右往左往逃げまくってきた、それが歴史を動かしてきたのであって、自分の家にへばりついてたやつは、そこで死んでおしまいだった。(笑)大体そういう話になってくるわけですね。
構造主義をふまえていっそうダイナミックな理論を構築しようとする試みがふえてきたのは当然である。
けれども、そのうちの多くが、構造と構造に包摂されざる部分とを二元論的にとらえ、その間の「弁証法的相互作用」によってダイナミックスを説明しようとする、旧態依然たる思考様式にとらわれていることは否定できない。かくして、秩序/混沌、中心/周縁、表層/深層といった古色蒼然たる概念対が持ち出され、おなじみの弁証法の舞台にかけられるというわけだ。
その典型はサンボリック/セミオティックの弁証法を中心とするクリステヴァの理論だろう。理論装置はやたらと大仕掛けなのだが、全体を透視してみると、やれ難解だ深遠だというひとがいるのが信じられないくらい単純明快な二元論的構図になっていることがわかる。同じことなら、理論装置は軽いものにとどめておいて多様な対象と身軽に戯れる方にエネルギーを注ぐ山口昌男らの方が、はるかに現代的な知のあり方を示していると言えよう。
関係の冒険。《外》との接触。こうした含意をもつ言葉を『ドイツ・イデオロギー』の中に求めるとき、ひとは「交通」という概念を見出すだろう。この概念は、いわゆる交通だけでなく物質的・精神的コミュニケーション一般を広く意味するものである。交通とそれが促進する分業とは、それらと有機的に結びついた生産力とともに、歴史を動かす主要因のひとつとして、きわめて重要な役割を与えられている。交通がなければ、つまり外部の異質なものとの出会いがなければ、歴史の展開は生じないとさえ言えよう。ここでは、歴史は、一個の主体が経験する内部的過程から限りなく遠いものとして考えられているのだ。
歴史を動かしてきたのは、構造に対するカオスの叛乱というよりも、諸構造間ないし諸共同体間の《交通》(いわゆる交通から商業や戦争にいたる広い意味で)なのだ、という認識を得ることができるだろう。
「文化の詩学」というタイトルは、文化を、あらかじめ出来上がった静的な秩序としてではなく、創造と破壊の両面を含む動的な過程としてとらえようとする姿勢を表すものだと言ってよい。
その場合、とりあえず二つの道がある。一つは、秩序と混沌、アポロンとディオニュソスのせめぎ合いに注目する道であり、もう一つは、秩序と交通、アポロンとヘルメスの関係を考える道である。
著者の理論は前者のアプローチを現代的な形で提示したものとしてあまりにも有名であり、本書においても、秩序と混沌の弁証法が、中心と周縁、内と外、同と他、文化と自然、無徴と有徴、情報とエントロピー、ディジタルとアナログ、男と女、共同体と異人などといったさまざまな形に変奏されつつ、政治から芸術にいたるありとあらゆる領域のうちに探られている。
ヘルメス的な交通こそが文化のダイナミックスの核心になることを、著者の理論の枠を半ば超えつつ示しているように思われる。