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「謝ってるんだから許してあげなさい」

謝っている相手に許しを与えない者は酷い人間だ。そんな風に外部の者に言われたことはないだろうか。
どちらが酷いのか。加害者はあくまでも加害者であり、仲裁者も被害者に対して許しを強要することは出来ないのに。

許すか許さないか。決めるのは被害者だ。
そして一生消えない傷を負わされた場合、許しを与えることなど出来るはずもない。

それなのに第三者は言う。断罪する。
お前は狭量だ。お前は人の道に反している。こころの傷をさらに抉って、複数で責め立てる。
だからお前はいじめられるんだと。お前(被害者)に原因があるのだと。

「ごめんね」「いいよ」
このやり取りを教えられるのは、幼稚園の頃くらいか?

いじめの場合は首謀者とそれを傍観したりはやし立てたりする共犯者がいる。一対多数であることがほとんどだ。そして長期に及ぶことが多い。園児の喧嘩なんていう可愛いものじゃない。

もし私が上記のような状況になったとしたら? 教師も私がいじめられていることを容認、無視していたので、このような展開はありえなかったが、
私もまた「許さない」と言いたい。
言いたいのだが、たぶん当時の私は「いいよ」と返す側だったろう。

加害者は反省などしていないのだ。仲介者のいる手前、自分の立場を悪くしないために、口先だけで謝ってみただけのこと。その後の加害者の行動を見ればすぐに事実は判明する。
その時にまた被害が再発したことを訴えるべきか? いや、加害者は反省などしていない。同じことが繰り返されるだけだと被害者は諦めてしまうのではないか。
少なくとも私はもう、加害者に対して期待をしない。仲裁後になんのケアもしなかった仲裁人にも期待しない。その他大勢にも期待しない。

許しを与えることで、加害者の罪は消える。なかったことにされる。そんなバカな話があるだろうか。
いじめは犯罪だ。
こころの殺人者は刑に服したり、賠償金を支払うのが筋ではないのか。

たかがいじめで? と思う人に私のいじめ歴を話そう。
十年間続いた。運の悪いことに。
小学六年という思春期の入り口で転校生となったことが切っ掛け。
私はまだまだ子供の精神で、既に「女の心」を持ち始めたクラスメイトの感情を理解できなかった。
新しい教室にとても目立つ男子がいた。勉強もできる。外見もいい。田舎の小学校の教室において、その男子は掃きだめの鶴だった(すまんな。他の男子)
とても目立っていた。目立っていたので私の視線は自然とそちらに向いていた。子供が珍しいものをじっと見つめるのと同じだった。それを一部の女子が「ふあ(私)は○○くんに恋愛感情を持っている」と勘違いした。あんな来たばかりの転校生に取られてなるものかと、そこから集団いじめが開始されたわけだ。
なんともまあ。つまらない少女漫画のような展開だ。
今時の小学生だと、もっとませているのだろうか。こんなことはよく起こっている?

それからいじめの中心は男子になった。私に向かって吐く真似をする。無視やバイ菌扱い、細かいことを取り上げては馬鹿にするのが毎日続く。
私に注がれる視線は、なんとしても粗を探して貶めてやろうという残酷なものだった。

小学生のうちに(まだ子供だと言い訳がたつうちに)二、三発蹴りでもいれておいたら良かった(いけません)
そのクラスはそのまま中学校に持ち上がりだったので、また三年間いじめは続く。その中から同じ高校に進学した女子が、高校にもいじめを持参してまたまた続く。短大はこれまた外部入学生だったため、よそ者として教師にまでいじめられた。

その頃には当然というべきか私はうつ病になっていた(のちに双極性障害Ⅱ型と判明する)
この病気は鬱期9割、軽躁1割。治療を中断すれば5年で再発。つまりは一生のあいだ服薬治療が必要な精神病だ。ほとんどが鬱期。若くて体力がある時期はなんとかなるが、中年になってくると体力が追い付かずに悪化してくる。

症状の悪化や緩解とともに、転職と再就職を繰り返した。いったん再発してしまうと仕事など出来ない。病欠は三か月しか取れない。そんな短期間で緩解するような病気ではない。
一人暮らしをしながらの夜勤・当直ありの医療職。それでも20年以上耐えた。50歳になる前に、このままでは心疾患か脳梗塞で死ぬと感じて完全に辞めるまでタクシーで通勤していた。血圧は常に200を越していた。

さて、この流れで私がいじめをしていた連中を「いいよ」と許せるだろうか。一生治らない病気になりながら、内科疾患も併発しながら、人間不信で恋愛も結婚もせず、常に他人の視線に怯え、長い間こころを閉ざしてしまった私が、「いいよ。許すよ」と言えるだろうか。

無理だね。一生許さないよ。常に祈っているよ。あんたらの不幸を。
それが自然の感情じゃないのか? 私はただの俗人だ。聖人じゃない。

忘れろと人は言う。そんな負の感情に支配されるのは時間の無駄、人生の無駄だと言う。そんなことは百も承知だ。出来るなら私も記憶の底を高圧洗浄機で洗い流したいんだよ。

許しを強要するな。
それを決めることの出来るのは私だけだ。

私は忘れないし、もし加害者で忘れてない奴がいたとしたら、許されていないという罪を背負ったまま、最期までもやもやしたまま生きてほしい。
ま、いないと思うけど。今頃、パフェでも食ってるんだろ?

はやいとこ、いじめなんて生易しい言葉を排して「犯罪」だという認識に社会が変わることを願う。あれはまさに集団リンチだ。
やりたくもない役員を多数決で押し付けられた。三年間、毎回。
キャンプ行事、弁論大会、なにかの行事があるたびに厄介ごとは必ず押し付けられた。だから私は多数決が大嫌いだ。

クラス全員が加害者だった。
なのに、自分が楽をするために厄介ごとを押し付ける人や、周りから浮かないために同調する人は、自分も加害者だという自覚がない。

 

さて、読者様もそろそろ救いが欲しいところだろう(笑)
私は自分で自分を救済することにした。他人を信じられなければ、自分でやるしかない。そして、それが最良の方法だと思っている。所詮、他人は他人だ。完全に私のこころを知ることなど出来ない。それを望むのは無理というものだ。

二十代半ばから私は小説を書き始めた。現在ここで連載している「ONE」だ。まだ第一部を連載中だが、主人公のカツミは第三部で振り返る。
自分は父親を許せたのだろうか? と。
結論は書いていない。問いを残したままだ。しかしカツミは父親に課せられていた巨大な運命を知った。それが人類の運命に直結する重圧だったことも。
そして今、カツミには全てを包み込んでくれる伴侶がいる。多くのこころ通じ合う同志もいる。
過去の傷は消えなくとも、カサブタに覆われて痛みは和らいでいる。それはカツミ自身がどんな苦難のなかにあっても常に前に進んだ結果だ。

ただし作者である私は一つばかり保険をかけている。
カツミは特殊能力者だ。彼が本気になれば、この星の人間を一瞬で消し去れる。塵にすることも、記憶を奪うことも一瞬で出来る。
カツミはそれが出来るのにやらない。なんとも羨ましい能力だ(笑)

切り札があるからこそ、聖人のように許すことが出来たのかもしれない。
作者の私にとって、カツミは自分がなりたかった人物の象徴だ。
避難場所であり、苦難を乗り越えるためのツールであり、痛みを取り除く鎮痛剤だった。

物語のなかでたくさんのキャラを殺した。私のための生贄だった。
作者は物語の神だから、自分の生み出したキャラをどう扱ってもいい。自分が生き残るためにどんな展開も許される。
だから私は物語を書くことは、こころの浄化だと言い切れる。キャラにとっては、とんだ災難だろうが(笑)
ただ、私の作品のなかにモブキャラはいない。必要だからこそ登場させたキャラクターだ。作者とはまあ、なんと我儘な生き物か(笑)

この小説は第一部の執筆に四年半。二部に一年半。三部はその四半世紀後に書いた。つまりは私のライフワークであり、人生を救った物語だ。
ここのサイトに来る人は物書きさんだろうから、書くことの効力はよくご存じだろう。人生を救われた方もいらっしゃるかもしれない。

こころを吐露する。それを物語というフィクションに落とし込む。
脚色され構成され、ひとつの作品となる。
昇華だよね。そう思って、自己満足に浸る。
自分が満足できればいいんですよ。リアルをフィクションという作品に仕上げたのだから、自分が満足できれば上等です。