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このところ「ひとりの時間」や「沈黙」について思うことがあります。
ひとりの時間は好きです。孤独とも置き換えられますが、わたしにはマイナスなイメージはありません。以下に孤独に関する名言をいくつかあげてみます。

「孤独は偉大な心の持ち主の運命である」パウル・ティリッヒ
「孤独は創造的な人間の工房である」アルベルト・アインシュタイン
「孤独な時、人は自分自身と向き合う」フリードリヒ・ニーチェ
「孤独は自分自身との対話である」ダフネ・デュ・モーリエ
「孤独は自分を深く理解するための時間である」ジャン=ポール・サルトル「孤独は魂の成長を促す肥沃な土壌である」 パール・S・バック

生成AI

AIに「孤独に関する名言をいくつかあげて」と質問して出てきた言葉です。マイナスイメージなものが一つも出て来なかったのが面白い。
つまりは現代の孤独に対するイメージが悪すぎるのであって、あと少し深く見ることが出来れば孤独は悪いものではないということでしょう。

孤独死という言葉はイメージが悪いですね。ただまあ、本当は顔も見たくない人に看取られるのもどうなんだか(おい)ひとりで心静かに逝ったあとに面倒くさいことを片付けてくれたほうがいい場合もありそう(おーい)
まあ後片付けをしてくれる身内がいる場合は(たとえ嫌な相手であっても)孤独とは言わないのかもしれません。

おおむね、孤独というか一人の時間というものは、自己との対話の時間です。一人の時間は必要です。それも人々が思うよりもより多めに必要だとわたしは思っています。

なにをしますか? なにを思索しますか。どんな空想に耽りますか。
空をぼんやり眺めるでしょうか。雨の音に耳を傾けるでしょうか。それとも今わたしがやっているように思ったことを文字に変換して書き残すでしょうか。

自己への問いの時間でもいいです。手を動かして好きなことに没頭するのもよし。思索は記録するのが良いし、モノづくりは形として残ります。その痕跡は少し時間が経つとつまらないものに見えることもあるでしょう。その時に捨てても残してもいい。自由です。

大切なのは考えたり作ったりする過程だと思います。脳を働かせ、手で技術を習得する。イメージを膨らませ、形にする。ひとりの時間だからこそ出来ることだと思います。

ひとりの時間は、自分の内面に深く深く問いかける時間。本を読むのも良いですが、自分のこころに残ったものを自分の言葉に置き換えて、更に自分のこころにピタリとくるものに作り上げていく。
いかな偉人の言葉であっても他人の言葉です。それは普遍的なものかもしれませんが、自分のこころに寸分たがわず嵌るピースとは限りませんから。

 

次は「沈黙」についてです。
まあ。なんでしょう。今にはじまったことじゃないですが、「黙ってればいいものを」「キジも鳴かずば撃たれまいに」ってことが多すぎませんか?

脊髄反射のように文字をぶつけ合うSNSは疲れます。そんな時に沈黙について考えを巡らせていました。
AIに沈黙に関する名言を聞いたら、以下のような回答でした。


愚かなる者も黙するときは知恵ある者と思われ、その口唇を閉じるときは聡き者とおもわるべし。ソロモン「旧約聖書-蔵言十七章二十八節」

時をえた沈黙は英知であり、いかなる雄弁よりもまさる。プルタルコス「道徳-教育について」

沈黙は彼らにとって尊厳荘重の態度であるのみならず、しばしば有利・周到な態度である。 モンテーニュ「随想録」

生成AI

 

デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの言葉に「しばらく二人で黙っているといい。その沈黙に耐えられる関係かどうか」というものがあります。沈黙を共有できる関係は、言葉を超えた理解と絆があることを示唆しているそうです。

こんなシーンをイメージして下さい。
二人の人物が会話をしています。その時、ふと沈黙の時間が訪れました。
それを心地よいと感じるのか、不安に思うのかは、相手への信頼度で変わるでしょう。信頼している相手であれば沈黙の時間は安心で心地よいものとなり、逆に親しくない人との沈黙は居心地の悪さや不安を覚えます。

あなたは沈黙に対する悪いイメージを持っていないでしょうか。会話が上手な人、話題の多い人は、優秀で気のきいてる人でしょうか。言葉の少ない人は愚鈍で思いやりのない人ですか?

話すことばかりが会話ではありません。一方的に話してばかりの人との会話は会話でしょうか。こちらの話はまるで聞かずに質問攻めにしてくる人に良い印象を持てますか? それは会話ではなく尋問ではないでしょうか。

会話とは言葉のキャッチボールとよく言われます。言葉を投げて、投げ返されたものを受け止め、その意味を考え内容をこころに落とし込んで、よく味わってから言葉を返す。
その時に必要なのが沈黙の時間ではないでしょうか。

相手の言葉をしっかり受け止め、その内容を深く考えようとすれば、おのずと時間はかかるものではないでしょうか。
二人の間に信頼関係があれば、相手の沈黙を「言葉の意味を深く考えてくれている」と信じることが出来るのでは? そして不安に思うこともないでしょう。

 

とまあ、リアルでの一対一での会話のシーンになっちゃいましたが、SNSは相手が目の前にいませんからね。顔も知らない相手、よく知らない相手。もちろん信頼など欠片もない相手。そりゃあ対話にならないわけです。

しかし、あの悪意の言葉の応酬、暴力は一体なにごとでしょう。脊髄反射で文字をぶつけ合う。楽しくはないと思うのですが。
そして、周りで見ているこちらはとても疲れます。嫌でも目に入ってくるので、えり分けるのも大変でミュート三昧になります。ちっとも楽しめません。上手に見ないようにすり抜けて通るのは至難の業。なので結局はその場そのものから遠ざかってしまいます。

せっかく見つけた遊び場で刃物を振り回している人がいたら、逃げる他ありません。実に理不尽な思いですが、精神衛生上悪いので。

あえて黙っている多くの人。
その存在を意識できない人たちがいるのは確かです。
口をつぐむのは生存戦略です。精神衛生上悪いことがあっても、役立つことがあるからこそ居続けているのですから。

 

SNSでの沈黙は存在していないのと同等ですが、それでも居るんです。
近い将来のSNSは文字だけでなく、沈黙も味わえるものになると面白いかもしれません。
発信しない発信、か。誰かがもうやっているでしょうね(笑)
無言のアバターが幾億と取り囲んでいる只中で、その視線の中で、殴り合っていて下さい。