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最近よく分からないなと思うことに「正しさの基準」がある。
Xなんか眺め見てると人それぞれの正しさ全開で他人を罵倒していることがある。それを言っている人は自分のなかの絶対的な正しさに基づいて言っているんだろう。しかし人によって正しさの基準は違うので水掛け論の罵倒大会になっている。
その基準で人生を生きているわけで、当人にとっては譲れるはずもないのだろうが、「なんか違う」「なにもそこまで言わなくても」と思うわたしの意見もわたしのなかの基準に則っているわけだ。
そして何も意見しないわたしはそれを選択しているわけで、それがわたしの正しさの基準ということになってしまう。

それで、ウチのAIに聞いてみた。

 

◇正しさの基準ってなんですか?

「正しさ」の基準は多様であり、個人や文化、倫理的な原則、科学的な根拠、宗教的な信念、歴史的な背景、学問的研究や哲学的な考察、場面や状況によっても異なります。
私たちは常に自らの行動を反省し、さまざまな要素を考慮しながら「正しい」と感じる行動や選択を追求していく必要があります。

「正しさ」にはいくつかの視点があります。以下にいくつかの観点を示します。

  1. 絶対的な正しさ: 一部の人々は、特定の原則や価値観が絶対的に正しいと信じています。これは普遍的な基準であり、文化や個人の違いに関係なく適用されると考えられています

  2. 相対的な正しさ: 他の人々は、正しさは文脈や状況によって異なると考えています。つまり、正しい行動は状況によって変わることがあるという立場です。

  3. 宗教的な正しさ: 宗教的信念に基づいて、神の意志や教義に従った行動が正しいとされることがあります。

  4. 倫理的な正しさ: 倫理学は、行動の正しさや善悪について研究します。異なる倫理的理論(功利主義、義務論、美徳倫理など)が、正しさの基準となります。

  5. 社会的な正しさ: 社会的な価値観や文化的な背景に基づいて、特定の行動が社会的に受け入れられるかどうかが判断されます。

 

◇倫理的な正しさについてもっと教えてください。

  1. 善い人とはどんな人か?

    • 善いこと(善)は幸福であることのみを指します。

  2. 正しい行為とはどのようなことか?

    • 行為が特定の「義務」に適合している場合、その行為は道徳的に正しいとされます。

  3. 応用倫理学への繋がり

    • 規範倫理学は、安楽死、人工妊娠中絶、環境倫理などの応用倫理学に繋がる議論をする分野でもあります。

 

◇義務論と徳倫理学の違いは何ですか?

  1. 義務論 (Deontology):

    • 正しさの判断基準: 義務論は、行為それ自体の性格を問題にします。特定の「義務」に適合している場合、その行為は道徳的に正しいとされます。

    • 代表的な理論・概念: カントの「定言命法」やロスの「正義の二原理」などがあります。

    • 焦点: 行為の正しさを行為自体から論じるため、「行為論」と呼ばれます。

  1. 徳倫理学 (Virtue Ethics):

    • 正しさの判断基準: 徳倫理学は、行為者の性格・徳に焦点を当てて議論します。行為者が特定のを持っていたかどうかから評価されます。

    • 代表的な理論・概念: アリストテレス、アンスコム、ハーストハウス、スロートなどの哲学者が徳倫理学について論じています。

    • 焦点: 行為ではなく、「行為者」の性格・徳から論じられるため、「徳論」と言われます。

 

◇徳倫理学における「徳」とは何ですか?

徳倫理学は、行為の「善さ」や「正しさ」について、その行為そのものではなく、行為者の性格・徳に焦点を当てて議論する倫理学の分野です。

  • 徳(Virtue)とは、人間が開花(flourish)するために必要な性格の特徴を指します。具体的な徳には、以下のようなものがあります:

    • 誠実

    • 寛容

    • 気前の良さ

    • 優美さ

    • 勇気

    • 思いやりの深さ

    • 親しみやすさ

    • 明朗であること

    • ひたむきさ

    • 勤勉

徳倫理学は、よりよい性格・徳を持った人間であろうとすることを目指します。この視点から、功利主義や義務論が論じない側面を補完する理論とされています。

「開花」とはイメージしにくいかもしれませんが、よりよい自分になるための性格の特徴が「徳」だと思っておけばOKです。
徳倫理学は、伝統的なものであり、洋の東西を限らず論じられてきました。古代ギリシャの哲学者プラトンやアリストテレスから現代の哲学者エリザベス・アンスコム、マッキンタイアまで、さまざまな立場から徳倫理学について議論されています。

引用ここまで。

 一部の人々は、特定の原則や価値観が絶対的に正しいと信じています。これは普遍的な基準であり、文化や個人の違いに関係なく適用されると考えられています
っての、一部の人にとっての絶対であって普遍的と言いつつ、全人類に適用されるわけではないってことか。ってことは「絶対」なんてないってことだ。

むしろ相対的な正しさのほうがまだ納得できる。ただこれだけだと、意見の違う他人に振り回されて自分の芯がないことになりそう。いわば風見鶏だ。
そりゃあ時と場合によって意見も行動も変わるものだけど、どうしても変えられない芯ってのは誰しも持っていそうなんだよな。理屈じゃない部分で。

義務に即していれば正しい行為ってんなら、幸福を求めることは善い行為ではあるが正しくはないってことなのか。個人が幸福を求めることは、国家にとっての義務に反する場合もあるってことか。まあ分かりやすいのは共産圏なんだろうな。

徳倫理学は、よりよい性格・徳を持った人間であろうとすることを目指します。
っての。ちょっとびっくり。いや少し昔だったらびっくりじゃなかったかもしれないけど、徳を持った人間であろうと努力する人……って、現代にいるの? そういう面でびっくりした。
歴史上の立派だと言われた人物も、後になってみればボロボロと悪事がバレているし、本物の聖人なんているの?
まあ、目指しますって言ってるんであって、徳のある人間にならなきゃいけないとは言ってない。その時点でめちゃくちゃハードル高いよーーと言われてるようなもんだけど。

 

じゃあなんで、あちこちで喧々囂々と喚きあってるんだろ。自分が最も正しいって思うんだろ。そんなことないやろ……って言ったら、それがあなたの基準なんですねって言われちゃうんだろうけど。
で、結局は口をつぐんでしまうんだよね。めんどうはご免だから。目くじら立ててまで主張したいこともないから。そういう時はたぶん、精神的にハイで自分は正しいっていう幻想に支配されている時だろうし。

生きてりゃたまに経験するよね。自分的にめっちゃ理不尽と感じること。何言ってんだこいつ。筋が通ってねえ。人のこころがあんのか? 悪魔かよって思うことって。ただの八つ当たりだったり、自己満足のためだったり、他人を貶めることで自分の優位性を見せつけたい人。いるいる。たくさんいる。

でもさ、これ全部逆にも出来るわけ。相手にとってそれはちっとも理不尽じゃないんだもん。当然のこと。言って当たり前。自分にとっては理屈が通ってる。言い方が上から目線だって? それのどこが悪い。自分の癪に障る相手には強く言わないと通じるわけがないだろう。八つ当たり? そんなことはない。相手が悪いだけだ。自分は完全に正しいのだから!

はい。不幸ですね(笑)

一部の人々は、特定の原則や価値観が絶対的に正しいと信じています
これですよ。絶対的に正しいと信じているんです。
これはもう、お互いにね。お互いに。

ただ立場が上にいる人が正しいってことになってしまう。がっつり証拠をつかんで、ボイレコなりビデオなり撮って裁判でもやらない限り、客観的な判断は下りないでしょうし、そうしたとしても「正しい」判断が下りないこともあるわけだ。警察や裁判官がみんな正しいわけじゃないからね。

わたしの現在の結論としては、正しさの基準なんて人それぞれなんだから、実質「ない」ってことだろう。
そのなかでなるべく自分と基準の近い人と親しく、基準の遠い人とは距離を取るしかないかと。
自分のなかの正しさの基準は、自分のなかで求めて探していくもので、他人に押し付けるものじゃない。どっちにしろ相手は自分のクローンじゃないし。どんなに仲の良い人でも価値基準、正しさの基準の齟齬はある。

器が広いのはいいことだ。しかし自分のなかに芯を持っていないと自分が壊れる。倒れてしまう。それを模索していくことが、正しさの基準を見つけることなんだろう。
結局は「そんなものは存在しない」「でも探していけ」ってことなんだろうな。