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突然ですが、書き手の方々『ポリコレ対策』していますか?

で、表題の『文化の選択的編集』の話です。昨今、ポリコレ対策のために、過去の名作であっても内容の書き直しをしているという話を聞きました。

『チャーリーとチョコレート工場』を書いた児童文学者ロアルド・ダール。 イギリスの作家です。彼の子供向け著作。最新版数作の内容が変更されています。作者は1990年に他界しているので、変更を加えたのは出版社ということになります。

「とてつもなく太っている少年」を「巨大な少年」
「小さな男」を「小さな人」
「紳士淑女の皆さん」を「皆さん」
「愛らしい桃色の」を「愛らしい滑らかな」
……とか、まだあるようですが。「黒」という色の表現を避けたり。

紳士淑女の皆さんってのは、男性女性を意味し、それ以外の性自認をする人を排除するからでしょうか?
桃色なのはミミズの肌色のことだそうで。つまりは、肌の色に言及したのがよろしくないと?

私は学校の図書室にある江戸川乱歩の本を読みつくしましたが、小学生の私から見ても過激だな……とは思いました。しかし作者の生きた時代は、そういう時代だったのだろうし、この過激さや容赦のなさが作品のおどろおどろしい雰囲気を盛りあげていることは理解して読んでいました。それこそが乱歩ミステリーの醍醐味であると。

以前に『若草物語』の内容が書き換えられた話もしましたが、あれは現代の子供に読み易いよう、平素な文体に変えたと理解していました。
もし『文化の選択的編集』の意図がそのなかにあったのだとすれば、私の感想は大きく変わると思います。

作家にとって作品は我が子同然です。それを、一部の偏った思考を持つ、ただ声の大きな人々に根こそぎ変えられるとしたら、作家の皆さんはどう思われるでしょう。ましてや自分の死後に、自分の手の届かないところで。

作家は僅かなニュアンスに拘り、使う言語を取捨選択して書いているでしょう。作品の世界観を細部まで作りこむために。
昔から検閲はありました。本も絵も燃やされてきました。黒塗りされてきました。そして、学校でもまた偏った教育がなされてきました。

文学作品を、一部の声の大きな人々の感性に適合させるために『選択的編集』することの恐ろしさ……。作家の方々は少し立ち止まって考えてもいいと感じています。

作品の偏りや歪みを決めるのは作者ではないでしょうか。どこか尖がっている。へこんでいる。それは、書き手の人生の反映だからでは? それこそが作品の個性です。
でなければ、全くもって『つまらない』作品ばかりになることでしょう。