こんにちは。Dvorakタイパーの司です。今日電話で祖父と話をしていたところ、どうやら祖父の父、つまりは亡くなった僕の曽祖父が戦前にタイピストの職業に就いていたことが判明しました。まさか身内にタイパーがいたなんて思いもしなかったのでとても驚きました。それを祖父に伝えたところ、祖父は何やら自宅の倉庫に潜っていって、大きな箱を抱えて戻ってきました。箱を開けると、そこには錆びてぼろぼろになったタイプライターが入っているではありませんか。しかも日本語タイプライターではなく英文タイプライターです。やはり血は争えませんね。僕は英文を打鍵する運命にあったようです。タイプライターを箱から取り出してみると、箱の底に、紙が一枚敷いてありました。どうやら曽祖父が書いた手紙のようです。八十年近い年月のせいで茶色く変色していましたが、文字のほうはどうにか読むことができたので、ここにその全文を掲載しようと思います。
或タイピストの手紙
何でも人の指を食べるのが速さの向上にはいいらしいです。ぼくも先日或タイピストの婦人の右小指を食してからは、一分間に四十語しか書けなかったのが、六十語まで速さが向上しました。生来努力というものが苦手な性分でありましたから、指を食べるだけで速さが向上するというのは、手っ取り早くて大層楽だと思い、そのタイピストの婦人にもう一度お願いして、左の小指も食べさせてもらったのが昨日のことです。
この裏技的方法はぼくが最初に発見したものだとばかり思っていたのですが、聞くところによると、どうやらタイピスト達のあいだではほとんど常識として行われている方法だと知って驚きました。巷ではタイピストの職業に就いている人間は気性が荒く暴力的であるなどと噂されているようですが、ぼくが想像するにこの指を食べる云々の会話が何処かで漏れたのが噂の原因ではないでしょうか。書き忘れましたが、タイピストの婦人の小指は右が百円で左が百五十円でした。左の方が少し高いのはその婦人が左利きだったからという理由です。話を戻します。タイピストが、他のタイピストの指を食べることで書く速さを向上させるという方法は、タイピスト達のあいだでは常識らしいのです。
ところでどんな指が速さの向上にいいのかというと、これは詳しくは分かりませんが、一分間に百語以上の速さで書いていたような指がいい指らしいです。要は高速なタイピストの指ほど食べたときの効果も大きいということらしいです。例えばぼくが指を食べたタイピストの婦人は一分間に八十語の速さで書いていたらしく、これは最上の指とまではいきませんが、十分な効果を望める指だと思います。実際にぼくも彼女の指を食べて速さの向上を実感しましたから。
指を切り落とす側、つまり指を食べさせる側のタイピストを、ここでは仮に提供者と呼ぶことにしますが、提供者は現役を引退したタイピストがそのほとんどを占めているようです。猫の指も借りたいほど忙しいこのタイピストの職業において、まさか現役のままで指を切り落とすなんてことはありませんから、引退したタイピストが、現役のタイピストに指を提供するというのは、考えてみれば至極当然のことでありますし、これが平然と行われていることにも自然に納得がいく次第です。
さて一分間に六十語の速さで書けるようになったぼくですが、こうなってくると自分の速さに満足することが到底できなくなってきます。もっと指が食べたくなりました。知己のタイピストに良質な指をまわしてくれるよう頼んでみたところ、地道に練習を積んで速くなるようにと諭されましたが、自分自身も或著名なタイピストの指を食べておきながらよくもそんなことが言えたものです。次第に堪らなくなってきて、自分の指を食べてやろうかとも考えましたが、そんなことをすればぼくはタイピストを首にされてしまいます。世の中には左右二本つまり両手計四本の指のみを使って書くという器用なタイピストも存在しているようですが、そのようなタイピストの方達は使わないでいる自分の指を食べればいいのではないかとぼくなどは思う次第です。
そうしているうちに、ぼくはあのひとの指が食べたいと思うようになりました。あのひととは、日本人タイピストの中では英雄的存在である照子女史のことです。照子女史の速さはもはや鬼畜の所業の領域です。その速さは一分間に二百語を軽く超えると言われています。二百語はぼくの三倍以上です。とても信じられません。照子女史は齢九十を超え、指は未だ衰えず、しかし體のほうはそろそろ限界が来ている様子で、数年経つのを待たずして亡くなられるのではないかと噂されています。日本中のタイピスト達がその行く末を心配していますが、これには別の心配もあります。つまり、誰がその指を食べるのか、自分は照子女史の指が食べられるのかという心配です。腐ってしまっては効果がありませんから、やはり指は照子女史が生きているうちに切断して、すぐに食べるのが新鮮で効果も高いでしょう。手の指は十本です。一人一本ずつだとすると、十人のタイピストが照子女史の指を食べられることになります。きっと戦争が起きます。先にも世界大戦とやらが起きましたが、我々タイピストにとっては、世界の国々の戦争などよりもっと大切な戦争がこれから始まろうとしているのです。しかし指の分配が論理的に運べばあるいは戦争に至らないかもしれません。コンクールなぞを開いて日本中のタイピストを集めて競わせ、その上位十人のタイピストにそれぞれ照子女史の指がメダルの代わりとして贈られるような具合です。一位と二位には左右の人差し指が送られ、九位と十位には左右の小指が……
愈々明日に迫ったコンクールへの不安からこのような気違いじみた話を書いた次第ですが今のぼくの実力では到底優勝など叶いませんし十本の指に入ることすら難しい有様ですから日頃熱心に応援してくれている妻と息子には合わせる顔がありません。