先日、コペンハーゲンにある世界一と言われるレストランを訪れました。
nomaという名のそのお店については様々なメディアで取り上げられているので、ご存じの方も多いでしょう。
料理に関する私の感想など取るに足らないものです。あえてその圧倒的な素晴らしさ、その接客の距離感の無さがいかに感動的であったかについて、ここで詳細は語りませんが、そのお店の、店内に張り巡らされたあの優しい空気はなんだったのだろう。
そこはまさに私にとってのサッドカフェでした。
今回はイーグルスのザ・サッド・カフェを訳してみました。時間が許す限りお読み下さい。



ザ・サッド・カフェ

輝く夜の中、
雨が静かに降り、
通りの痕跡を
すべて洗い清める。
銀色の光の中、
過去がゆっくりと蘇り、
そして思い出す、
サッド カフェで過ごした日々のことを。

そこは神聖な場所で、
神のご加護のもと、
声高らかに歌った、
言葉にできないことを、
世界を変えられると信じていた、
愛や自由という言葉で。
孤独な群れの一部と化した、
サッド カフェ内で。

願いは叶うと期待した、
美しい岸辺はすぐそこにあり、
やがてそこに全てが収束すると。
何人かは夢を叶え、
何人かはこの世を去った、
何人かはいまだに取り残されたまま、
サッド カフェの中に。

暗雲が立ち込め、
あの岸辺を覆い、
栄光行きの列車は、
もはやここには止まらない。
改めて当時を振り返ると、
時代の流れに圧倒される。
なぜ運命が微笑みかけるのは、
たった一部の者のみなんだろう。

時が経つにつれ
仲間の顔も薄れてゆく、
この世はあまりに緩慢に変わりゆくから、
まるで何も変わっていないかのよう、
何故って聞いても無駄なんだ。
ただ、そうなってしまっただけ。
だから真夜中に会おうよ、
サッド カフェで。
夢の中会いましょうよ、
サッド カフェで。

プロコル・ハルム「青い影」

この歌詞の訳については、作者のキース・リード自身が明白な説明を避けているため、さまざまに解釈されているところです。それは、わたしの勝手な想像ですが、彼の極めて私的な詩であるとともに、本当の意味をあまり知られたくはないからなのではと考えます。
あるブログをきっかけに、わたしは今一度この詩について考えてみました。そして、日本ではあまり知られていないウィーンの先鋭的な詩人、コンラード・バイエルの作品を読み進めるうちに、パッとひらめくものがあり、またこの詩の書かれた時代背景も勘案し、自分なりの想像で訳してみることにしました。かなりの意訳となりますが、ご興味がおありでしたら、どうぞお読みください。


青い影

とにかく軽いノリでバカはしゃぎしてたよね、
反戦だ、ドラッグだ、セックスだって。
幻覚見ちゃ床転げ回ってさ。
船酔い気分もあったと思うんだよ。
時代はさらにそういうことを求めていたし、
ニーチェによって天国なんかもぶっ飛んでっちゃったんだし。
僕らはより深い酩酊を求めていたよね。
でも現実は僕らには冷たく重すぎた。

だから粉屋が、「お嬢さん、そんな安っぽい代物じゃあ、自決なんて無理だよ」
って、君に言ったとたん、
君の顔からはみるみる血の気が引いていって、
死人のように蒼ざめてしまったんだよね。

「自殺するのに理由なんかいらない。この現実がすべてを物語っているじゃない」
と君は言ったね。
僕は僕なりの稚拙な考えで考えてみたけれど、
やっぱり君を今年になってからあの世に旅立つ16人目の自殺者として紙面を飾らせるワケにはいかないと思ったんだ。
そう考えた僕は、両目をしっかりと開けていたにもかかわらず、
盲目同然だったんだね。

だから粉屋が、「お嬢さん、そんな安っぽい代物じゃあ、自決なんて無理だよ」
って、君に言ったとたん、
君の顔からはみるみる血の気が引いていって、
死人のように蒼ざめてしまったんだよね。

「さあ、生まれてきた場所へ戻りましょう」と君は言った。
事実もうそれしか方法がなかったし、もうすでに津波の真っ只中にいたんだし。
それでも僕は皮肉を込めて遠回しに、「ああ、これで君は人魚姫みたいに海の泡となれるね」と言ったら、君はあんなにも哀しげに微笑んだ。
だからもう怒る気にも、なれなかった。

もし音楽が愛を糧とするのなら、
世界は明るい笑い声で満ち溢れていていいはずなんだ。
それと同様に表裏一体で
このうす汚れた現実が真っ当な真実であるとすれば、
僕はただ口をダンボール箱のようにして
頭の中にその事実を放り込むしかないだろう。
だから海に飛び込んだんだ、君と一緒に。
海底めがけて、真っ逆さまに。



もしこの訳がリードのいわんとする本当の真意であるとすれば、彼はさらにこのように付け加えていたかったのだと思います。以下はわたしの単なる想像かつ創作です。

本気で死に急いでいた君は見事に死んでしまったけれど、
中途半端だった気持ちでいた僕は結局は死ねなかったよ。
今もこうして生きている。
相変わらず変わり映えのしないこの現実社会の片隅で、
相変わらず変わり映えのしない音楽と向き合っている。
でもね、それもそう悪いもんじゃあ、ないよ。
そう、そんなに捨てたもんじゃないんだ。
君にはわかってもらえないかもしれないけれど、
もし君が今でも生きていて、そして僕と同じように年をとっていれば、
いつかそのことを理解することができる日が来ていたかもしれないね。

このように、この曲は彼個人の死んだ恋人のためのレクイエムで、その内容が温かな愛と優しさで満ち溢れているからこそ、この曲は現在にいたるまでこれほど多くの人々に愛され続けてきたのではないでしょうか。

*Special thanks to Barcarolle