民間人だけだとどうかなのかは明確にありませんけど。
世界が本気に助けようとすればきっとここまではならずに解決出来ていた。
シリアの人口は1700万人以上。難民として先進国が受け入れるには無理のある数字。
それは難民としてだから無理なだけであって、最初からシリア内で避難して生活出来る地域を拡大していけば今頃はしっかりした自治体、いや新たな国すら生まれていた気がする。
平和を望む人たちだけの国が。
国際的にはそこの防衛とインフラ整備、企業参入による雇用サポート。
世界がそこだけをひとつに見ていればズルズルと進むことは無かっただろう。
結果論と言ってしまえばそれまでだが、終わりの見えない内戦にはこのような国際間全体のサポートが必ず必要な気がする。
35万人。
普通に小国が作れるほどの数字です。
どれほどの血と涙が流れたのでしょう。
震災で子を失うことも、内戦で子を失うことも、
残った者が受ける悲しみは同じ。
世界は何一つ真剣になっていない。
どこか他人事であり続ける。
国の境と人の境。
そこは別々に見なくてはいけない。
人類は国という概念に無駄に囚われすぎている。
どうして人類は地球という括りで見られないのか。
永久にそのままの窮屈で居続けるつもりなのか。
昔からの流れを引き継ぎ、生まれながらの流れを引き継ぎ、国の存在が当たり前になっているからと言ってそれに呑まれる必要はない。
人類は国有りき国境ありき。それは生まれながらにして洗脳されているだけのようなもの。
まずは同じ人間であるということだけ。
もし『国というものがこの世界に無ければ…。』
そうなのだから。
国なんておまけとしてあるようなものと。たまたま生まれた土地が違うだけであると。
そう意識を改められる人類であってほしい。
人は生きるために多くの生き物を殺している。
見方を変えれば非常に残酷な生命体。
我々はその残酷さを受け入れているからこそ、食べ物を頂くときには感謝して頂く。
食べ物を残さない躾。それも同様の理屈。
誰しも残酷を見て見ぬふりをしない本質は持っているということ。
だから他国で起きている残酷な出来事にも必ず気持ちを持っていけるはず。これまでがそこを教えられる環境に無かっただけ。
教えられることだけが全てじゃない。
教えられなかった問いへの答えを見つけていくのは今生きる人達の一つの課題。
食べ物も国外の出来事も。
その残酷な現実を、如何に真剣に、当たり前と考えるか否かの違いでしかない。
考えることからすら逃げ、決して当たり前じゃないものを当たり前と思い込んで見て見ぬふりを続けることは、必要としない生き物を殺すような残酷さと大して変わらない。
内戦の中で人を殺すものが残酷であれば、我々もまた等しく残酷な存在であると。
それを受け入れ、それに気付いて、
言葉や行動で示して行かなくてはならない。
人は国を変えられる。国は世界を変えられる。
救えなかったはずの命を救えるのは、変わった世界の下にしか存在しない。
我々一人一人の微力は、決して無力ではない。