死ぬ。










そこに怖さがあるとすれば死ぬ前の痛み・苦しみだろうか?
そういう人もいるだろう。


しかしそう言った人でも実際に一番の恐れとなるのは、命というよりも一瞬にして失われる全てのものなのでは無いかとそう思う。

失うものだけではなく、得られなかった後悔・無念・恨みといったものも人によってはあるだろう。










死を恐れ生きることに得はない。

物も欲も恨みも死んでしまえば全て無くなる。

そこに執着し気持ちを落とすことには一切意味がない。






しかし人間。
全てを簡単に断ち切れるわけでもなく、だからこそ宗教には生死に関連した項目も必ずや存在する。









未練や執着。
それにより死を恐れるということは、貴方が欲深い人間であることを意味する。

欲深いからこそ執着する。失うことを恐れ、得られぬことに嫉妬する。








自分が不幸な人生だったと思っている人。

本当に不幸だろうか?

仮に30歳で人生を終えようとするならば、不幸だろうか?








普通に考えれば不幸である。

しかし20歳で亡くなる人もいる。10歳で亡くなる人もいる。
そんな中で30歳まで生きることが出来た。その括りで見れば幸福である。







物も命も他人と比較するんじゃないと。
ただそれだけである。

不幸を呼ぶ要素があるとすれば、それは比較があってのもの。
元から比較対照すら存在しなければ何が幸せで何が不幸かなど一切の判別すら付かないところなのである。








死の恐れを作っているのは己が持つ概念のみ。

人は、生まれてきて生きていると感じられるその経験が出来ただけで十分幸運。
その経験と感謝を心から踏みしめて生きること。それが人生そのものなのでは無かろうか。


人生の意味に答えを見出すことなど出来るわけも無いが、唯一あるとすればそこなのでは無いのかと思う。







地球が誕生して消滅するまで、自分と認識して生まれてこられる可能性はいかほどだろう。

もしかすると0に等しい確率かも知れない。その可能性は普通にあるわけである。









生まれてきてラッキーだったなぁ。
生まれて来られただけで本当にラッキーだったなぁ。

そう考えた先に、いずれ死ぬことの宿命を悔やみ恐れることがあるだろうか?






ただただ死を受け入れる。
それはきっと無理だ。やみくもに死を押し込めようとすればするほどに、必ず心のどこかでは壁をぶち破ろうと未練や執着が顔を覗かせてくる。





純粋に死を受け入れるという意味。

それを成すには、死よりも圧倒的に強い生への有り難みを持つ以外に無い。

生まれてきたこと、生きていること、幸せであること。
その意味の根っこを掴んでいない人は死の恐れからは決して逃れることはできない。

死の瞬間まで常に。





不幸である。
どんなに地位や名誉やお金が手にして裕福に満たされた人生を歩んだとしても、強い未練を持ったまま死ねば幸福と同時に不幸を掴んでいたに過ぎない。


最もあって当たり前のものを実感し感謝することで、
あって当たり前の死をも自然と受け入れることが出来るようになるはすだ。



























































生まれてこなければ死ぬことすら出来ない。