忌み嫌うことだけはあってはならない。

悪いのは愚かな人間であり、祀られる神、八幡宮の歴史に罪などないのだから。












祟りがどうだの。
そんなものを気にする者がいたとしたらあまりに馬鹿げている。
此度の事件の容疑者無勢に人を祟る力があるのならば、手を汚さずと他者を呪い殺せたであろう。

そして死んでそのような力を手に出来るならば世の中はとっくに怨霊だらけ。人類などそれらの祟りにより当に絶滅している。








事件の惨状や愚かな人間の発言ごときに惑わされ、信じるべきものを見捨てるとなればそれこそ罰当たりである。

これだけはあってはならないこと。

















富岡八幡宮はより神聖な場所として崇めるべきだ。

今回の事件。
横綱の騒動。

まるで、人としてのあるべき姿勢を失った者に対し一挙にして天罰を与えたかのよう。

被害者はどうかは分からないが、一族そのものは断じて正しい形ではない。これは誰の目にも明らかなこと。








天罰が下るべき要因を秘めたもの周辺に下っているだけであり、それが神の判断とすれば何も間違っているとは思えない。

もし事件とならなければ富岡八幡宮にしても各神社にしてもモンゴル力士にしても、この先もずっと多種問題を引きずり続けていたわけだ。










当方は無神論者である。
お参りも初詣も行かない。

罰当たりとは思わない。私程度の人間が都合良く神頼みして利を得ようなど、それこそ罰当たりである(笑)





しかし、もし神の存在があると想定すればここには強く感じるものがある。

人間への戒めとして。




















ここからは神が存在すると仮定してのこと。













道を逸れた人間に罰を与える神がいるとすれば、それは紛れもなく正義である。


神を信じる人間。つまり初詣やお参りに行く人間。
あなた方ほど八幡宮を遠ざけてはならないはずだ。

安直な考えだけで遠ざけてしまってはその神が伝えたかった真意さえも避けることになるのだから。












人の手で汚した富岡八幡宮。
人の手で綺麗にするのは当然の使命である。

神社を存続させていた最もな力は民衆の力。宮司や神社関係者が全てではない。






富岡八幡宮に神がいたとすれば、そこには一切の罪は存在しない。相応しい存在では無くなった一族が排除されただけのことである。

相応しくない存在になってしまった。それは今であればこその事実である。


一族内での醜い争いすら静められない者達のどこに神を崇める力があると言えようか。

むしろ神への冒涜極まりない。長く民衆の思いを無下にしてきた報いのようにも思える。










私はそう思うからこそここに一筆を綴る。

富岡八幡宮自体が決して避けられることの無いよう。
むしろ逆であると。


人として失ってはいけないもの。最も大切なものを伝えてくれる最高の神ではなかろうか。






此度事件は、人類が深い意味で教訓とすべき事件である。







































































人が人を思えば一切として争いは起こらない。

争いとは、人を思わないことで起こる必然なのである。