五、夏生の狩りの準備

「ヤツを良く見ていろ!」

火の男の近くにも常世海月が近づいている。男はぶるっと肩を震わしたように見えた。

黒い靄、あれは…何?

背中から手が出てきた。手はするすると鎌首をもたげ一匹の海月を摑まえそのまま口に入れた。男は空を見上げた。

男の喉元を海月がごくりと通り過ぎたのが見えたような気がした。

「まずいよ。叉鬼の眼になる」

「心配はいらない。プネーがユフを食べるとしばらく眼を奪われる。その間に俺たちの狩りをする」

「食べなかったら?」

「逃げるか、俺たちに反撃する」

「追うぞ!」

ニニギは四階の壁面に腰を低くして立っている。

「壁に張り付いている…」

「心配はない。空こそ飛べないが、ビルの壁だろうが、木や鉄塔だろうが、叉鬼に高さの縛りはない。お前もついてこい!」

「でも…」

「眼を信じろ!空を見ろ。見えるか?」

夏生はくいっと顎を上げた。するとそれはそこにあった。

「采女(うねめ)とはあれだ。俺たちは引力から自由になる」

見上げた空には巨大な月があった。クレーターもはっきりと見える。月は青い光を放射し、受けたニニギの眼は金色になった。

「何を驚いてる。お前の眼も同じだ」

私の眼も

「私に何が起こっているの?」

「いずれ知る」

ニニギは壁の上を歩いて三階へ降りようとしている。

「恐ろしいなら俺の背中だけを見てこい。逃げられるぞ」

そんなことを言っても…下を見ていると思わないで夏生…ニニギの背中を見て、平地を移動すると思うのよ!

自分を奮い立たせて壁へ這うように降りた。

ニニギの背中が見える。その背中を追って一歩踏み出す。なんだが地面が足の下にあるような感じに夏生は驚いた。そっと立ち上がると、壁の壁面にも関わらず立つことができる。怖れを超えて飛び上がりたくなるような嬉々とした喜びが沸き起こった。

「腰を落とせ!自分を四足のケモノと思え!」

喜びが湧き上がる。何か新たな意識が目覚めたことに全身が震えた。

「向こうには何がある?」

ニニギが指差す方角を見た。

「向こうには、繁華街があります…」

「その向こうは?」

「たしか…神社があります。古い鎮守の森です」

「そこへ向かっているな」

ニニギと夏生は地面に降り立った。

「あのう…今は昼ですよね。こうして見ると、ほら学生もたくさん歩いている。姿、見られてませんか?」

「見える者には見える。見えない者には見えない。叉鬼は狩る対象しか見ない。フラフラしているとお前は狩られる側になる。ヤツ等を甘く見るな。狩人が無防備に見つかったらそれは死を意味する。現実であれ、夢であれ、自分にこそ気を付けろ。欺かれるな」

ぐっ、と続く言葉を夏生は呑み込んだ。自分の足元が見透かされている気持ちがしたからだ。自分を持たず周りに流されている現実を叱られているような気分。この人は私の何を知っているのだろう?

血が夢を作る…って…今が夢だとしたら。

「また眠っているぞ!俺の背を見てついてこい。狩人の足の動き、仕草を、身体で学べ!」

「はい!」

何て久々の言葉だろうと夏生は思いながら、背中に眼があるようなニニギの動きに遅れまいと付いて行った。

一歩一歩。運んだ足を地面が足を弾くように感じる。跳躍すれば二階にも届くような軽さではないか。ニニギを見ると滑るように進んでいる。時折後ろを振り返るとキラキラとした金色の眼が光り、空を見ろ、と言っている。

月だ!月の引力だ!

推進力を前へ前へ、ニニギの背に向かって滑った。

まるで獣だ!獣を狩る者も獣だ!

車道を横切り、垣根を飛び越える。ニニギの背中で渦を巻く風を捉えて利用する。ニニギに並ぶ。並んだまままだ人通りも少ない繁華街へと入る。振り返ったニニギがにやっと笑った。夏生もまた笑い返した。

繁華街を過ぎるとき黄色っぽい火が見えた。

「あれ見て!」

「自己破壊者のプネーだ。悪さはするがまだ命を奪おうとはしていない」

繁華街の先には堀があった。川と川を繋ぐ水路だが幅がゆうに五メートルはある。

「堀を飛ぶぞ!まずお前の意志の中で飛べ!」

堀の向こう側は雑木林、その一角に草地が見えた。

自分が飛んでいく姿が見えた。その後ろ姿が。

「見えたか?お前の一瞬の軌跡が出来上がった。それが心をつくるということだ。」

ニニギが先に飛んだ。その軌跡が網膜に焼き付き身体が反応する。心臓が地面を蹴る。眼が地面を蹴る。本当の足が地面を蹴る。

草地の一角が目前にまざまざと見えた。水面から立ち昇る水蒸気を含んだ川風が足元にあった。その川風の上を滑る。月にぶら下がって滑る。降り立ったニニギが満足そうに見ている。そして降り立つ夏生の腕を取った。

「まずは上出来だ!」

その言葉を聞いて夏生は笑みを浮かべた。

日中なのに騒音すらしない。車は魚のように遊泳し、人は影のように物憂げに動いている。現実は彼らの中にある思いや思考の速度でなりたっている。

反対に、自然のあらゆるものが囁き声を上げている。それらはまるで不随筋のように動き、動くことで囁いているのが夏生には感じられた。

何だろう。これ?

『世界は事実へと解体する』としても、事実は感じ方によって大きく異なるとは言えないだろうか。

感じ方…感覚の境界こそが世界の水平線なのかもしれない。

とすれば…哲学は感覚に左右される?

「眠っているぞ。お前はすぐに眠る。だが、ここからは狩りだ。命がかかっている。それを忘れるな」

雑木林を抜けて土手を登った場所でニニギは立ち止まった。

「叉鬼の狩り方を教えよう!

叉鬼は蜘蛛になる。叉鬼の眼で視界に糸を張る。

糸を張ったら、張った糸が皮膚がなる。

糸の距離、皮膚の面。蜘蛛の巣の広がり、それが叉鬼の結界だ。個々人の能力の違いで巣の形も、大きさも異なる。心身の状態に応じてもそうだ。

緊張を解き、ゆるゆると感覚を研ぎ澄ませ。そして大気に解放しろ。見えないものが見えてくる。

それは叉鬼の眼と耳とがひとつになるからだ。

やつがここへ来る前に、この森に己の糸を張ってみろ。

糸が張れなければ狩りはできん」

夏生の中で多くの疑問が声を上げそうになったが、上げる前に言葉を潜めていった。不意に何かが内側と外から聞こえてきたからだ。

声は言った。

「お前にこれをやろう」

ニニギが差し出したのはナガサ(剣鉈)だった。

 

 

 

 …つづく