― Knocking on Heaven's Door
車はペダル違いで大違いというが、事は急いていた。
踏んだペダルはアクセルで間違いはない。運転はパレッシュ親子に任せて、いざという時のブレーキは私たちダーレンの最後の仕事になる。たぶん。
すべてを話した時のディヴィの驚いた顔と言ったらなかった。血の気の引いた真っ青な顔。今にも倒れそう姿は占い師レディの店にあった古びた人形のようだ。
ああ何てことだ。どうして死人形のことなど想い出しちまったのだろう?デイヴィは青ざめても美人だというのに。
「うそ?…でしょう。」
「ディヴィ。これは本当だ。難しい説明は抜き。とにかく事を荒立てないで市長に連絡して欲しい。」
大丈夫か?あと三十分を切ったぞ…
「あと三十分で家を出なくてはならない。」
「わかったわ。でも、道すがらキャッツが潜んでいるところなんてわかるの?」
「あいつらは目立ちたがりだ。かならず勝ち誇って合図してくる。」
「だってダーレンは犠牲者になるんでしょ。合図なんかしてくるはずない。」
「いざというとき逃げると思っていれば別だろう。」「そうなの?」とディヴィはすぐに顔色を伺ってきた。
「詳しいことを話している時間はないよディヴィ。僕を信じてくれ。」
「逃げなければダーレンはどうなるの?」
ディヴィが心配してくれてるぞ。そっちもありか?
「心配しないで信じてくれるだけでいい。」
自己中のこいつはそう言って誤魔化した。
そしてすぐに額のあたりから声がした。
やるべきことをするんだよ。
すると後頭部からもうひとつの声。
そうそう。忘れちゃいないだろうな。俺たちは特異点を作る。三人の均衡で…後は重力任せの軌道さ!
それとオマジナイの言葉がある。
二つの声に挟まれると両手を掴まれたような不自由さを覚えた。とにかくこいつらの、といっても自分のことだが、言うとおりしよう。それにしても自分が、こう言っている元々の自分だが、一番馬鹿な役回りのように思えてきた。
まあ、見てろよ!キャッツを捜すのだけはどのダーレンにも負けやしない。強がりにそう言ってみた。
ああ、知ってるよ。左右から心地よいハーモニーが聴こえた。
私たちは贈り物を手に、ディヴィは花束を抱え市庁舎へと向かった。案の定最初のキャッツを見つけたのは「私」だった。
ディヴィはすぐさま市長に位置情報を送った。
市庁舎に着くまで五人のキャッツを見つけたが、スイッチを持っているはずのリーダーはまだだった。
「ディヴィお嬢さん!」
どこからか声がかかった。見ると市の役員が市庁舎前で手を振っている。そしてどこからともなく照明のライトがディヴィと私を照らし出していた。その時。
三つの別々な影が自分の影になって現れると、ちぐはぐに動いているのが目が止まった。あれは…
そうだよ。俺たちに決まっているじゃないか。
影は六つの腕と六つの足を持った怪物に見える。
こんなのがディヴィに見つかったら…
大丈夫!俺たちにしか見えない。色の三原色だよ。色の成分までは見えない。
見分けるには俺たちのように…わかるだろう?
しっ!始まるぞ。
一体誰が始めるんだ!
奴だ!
その時キャッツのリーダーヘルの姿が市庁舎斜め向かいの三階テラスに見えた。
あそこだ!あいつが始めるのか?
「ディヴィ。いたぞ。セントラル保険の三階だ。ご丁寧に手まで振ってる。」
「わ、わかったわ!」ディヴィは震える声でそう答えた。
なあ、あいつが始めるのか?
違う!同時刻同場所に俺たちが存在できるはずがない。にもかかわらずオマジナイの方程式がそれを可能にした。方程式の解は太陽が起こす。
太陽だって!
驚くのと同時に私は太陽を見上げた。するとどうだろう。
太陽が…太陽が何個も見えた!
パラメーター空間において球、それも太陽のような球体はいくつかの多面体の合成なんだ。
こいつは平然とそう言うが…十二個だぞ。いや、十五…まさかこんなことが…
うるさいぞダーレン!もうすぐ特異点が現れる。
ああ、なんてことだ…ここは不思議の国か?
「ダーレン。連絡したわ。これからどうするの?」
「きみは市長と一緒にいて。」
「ダーレンは?」
「私はこいつに助けてもらう。」
こいつは手にした箱を見つめて言った。
「だってそれ、バクダン?じゃあないの?」
「そうであって、そうでない。そして、間に合わないことが間に合う事なんだ。」
「言ってることがわかんないよ!」
「ああ、ディヴィ。ただ信じてくれるだけでいい。僕らは魔術師なんだ!」
「えっ、なに、魔術師って…それに僕ら?」
始まったぞ!
三人分の影がグルグルと影絵のように回りだした。
見上げると中心に集まった正八面体、十二面体、二十面体の太陽の周りを変則多面体の太陽が回り始めている。
今だ。走るぞ!
どこへ?
裏の公園だ!市庁舎を突っ切ろう!
「ダーレン!」叫ぶディヴィの声が聴こえた。
振り返るとヘルキャッツが警官に囲まれているのが見えた。ヘルは右手を高く上げてスイッチを振り回している。
オマジナイを唱えろ!
プランクドラ・ペストラ・クレストラ。
プランクドラ・ペストラ・クレストラ。
プランクドラ・ペストラ・クレストラ。
手の箱が振動しだした。
まさか?
「爆発はしない!特異点が生まれる。
そしてその特異点とは俺たち三人によって生まれる。
背後で小さくディヴィの叫び声が聴こえた。
何が起こってるんだ?
集中しろ!
庁舎を抜けて公園が見えたとき、手に持った箱をそのまま空中に放り投げた。箱はクシャクシャに内側へと折畳まっていくととても奇妙な姿になった。
市庁舎正面から大きな歓声が上がった。いや、あれは悲鳴か?
見ろ!ミクロの特異点、つまり異次元の入口があれだよ。
箱は全くの別物へと変わっている。その姿は、なんと言えばいいのか、四方八方に喇叭の口が開いたような球体なのだ。なんだか雪の結晶のようにも見える。
in,out。消えたり現れたりする量子のジャンプが世界ごと起こる。後は重力変換頼みさ!
秒読みの出来事が意識の中で再生されるように流れていく。
どこへ?もちろん答えへ向かってだ。
なあ!あまり腹を割って語るまではいかなかったが、俺たちなかなか良いバランスだったよな?
途中からしか加われなかったけど、君らの会話は全部聞こえていた。ちょうどお話を書いている最中だった。お話の中に君たちは存在し、「僕」も存在していた。この話をどう決着しようか?…考えていたらいつの間にかその物語の中に自分がいた。これは何と言えばいいか…あの壮大なSF映画「2010年」的に言えば、素晴らしいことが起きる、と思ったよ。この世界に呼んでくれて感謝する!
我に返った私は、今の今になって影のシドモンドに自分でも思っていなかった愛着を覚えた。二人のダーレンに比べれば、自分は何にもない落ちこぼれなのだ。私こそが影なのに違いない。ディヴィの豊かな表情が脳裏によみがえる。教会に行かなくなって今更だが、願うことができるならこの世界を…
すべての世界が答えなんだよ!
どのダーレンも答えそのものさ!
目の錯覚だろうか?三次元空間が輪切りになっていくのが見えた。
「見ろよ。ゼノンの逆理だ。時間と空間の分割可能性が実証された瞬間だ。」
「ミクロの世界の出来事が現実のスケールを持ったんだ。素晴らしい!」
二人のダーレンがそう言っている間にも、薄っぺらな一瞬の時間に封じられた空間が奇妙に折りたたまれ多面体になっていった。そして特異点の喇叭の中へと吸い込まれていく。同時に、音が出ない代わりに音符を吐き出すように多面体が飛び出てくる。その運動は連続し、多面体は喇叭の数ほどの∞記号を描き出した。
「いよいよだ!」
「一つの時空に三人のダーレン。その答えは?」
「プランクドラ・ペストラ・クレストラさ。」
世界は一瞬にして真っ白な光に包まれた。
世界は…ディヴィは…ダーレン…
…きみ。
「きみ。きみ。大丈夫か?」
顔を覗き込む者が見えた。どうやら警官のようだ。
私は熱に浮かされたように何かを答え、また意識を失った。
次に目覚めたとき。私は病院のベッドにいた。
母さんとディヴィが付き添っていて喜びの声を上げた。
警官に意味不明なことをつぶやいていたためすぐに病院に運んだのだそうだ。
「飛び級の特待生に何かあったら大変でしょ!」
そうディヴィは言った。
飛び級?特待生?
「何があったの?」
「忘れたの?市庁舎上空で気球が破裂したのよ。乗っていたカメラマンは偶然にも保険ビルの屋上に飛ばされて足の骨を折る大怪我。集まった人たちは混乱で軽い怪我を負った者数人いたわね。」
「でもダーレン。お前は裏手の公園で倒れていたのよね。」
公園?
「そうそう。私と一緒にいたのに、上だ、とか叫びながら市庁舎内へ走り込んでいったのよ。おかげでみんな気球に気がついたんだけどね。何かあったの?」
何か?…何だろう。
懐かしいようで、悲しいようで、いたたまれないような、むくわれないような感情が胸いっぱいに広がった。
一晩病院で過ごし、翌日退院となった。
母もディヴィも迎えに来なかったが、自分にとっては都合がよかった。薄ぼんやりとした記憶が無数の泡のように深層から浮かび上がってくる。その中に横たわって浮かび、漂い、眠った。夢の中で断片的な記憶と想像とが縫い合わさるようにして一体となっていく姿を感じた。
まるで日本の折り紙のようだな。そう思えた。記憶と想像は別物ではないのだ。
病院から出て通りを歩いていくと、レディ・ブラックの占いの館があった。
…ということは、ここはあの空間物理学者だった世界ではないんだ。その思いには影が付き添っていて、お前は何の話をしているんだ。そう言った。そして私はまたわからなくなった。館に足を踏み入れると、レディ・ブラックがこっちを見てニッコリと笑った。
「おや!まあ!パンドロックのぼっちゃん。災難だったねえ。今日は東洋の占術の本でも借りたいのかい?」
「ああ。いや…」
何だろう?レディに聞かなくてはならないことがあったような気がする。いったい何だろう?
私は忘れている。
ホロスコープが描かれた祭壇に文字が見えた。
『プランクドラ』とある。
「レディ!あの言葉の意味は?」
「占いを実現するための言葉なんだが、一部なのさ。あれじゃあ役に立たない。そうさなあ。『ひっくりかえって』というべきかな。」
ひっくり返る…そうそれは逆転する。
小さな閃光が無意識の闇に閃いた。
「レディ!全文を知っている者はいないの?大事な事なんだ。」
「そう言われてもな。確か妹が一部を知っていたはず。」
「妹?妹がいたの!」
「わたしは占い師だが、普通に母から産まれた。妹と一緒にね。生憎妹は占星術じゃなくて天文学者になっちまった。わたしと同じように一文に導かれたそうだが、それこそ占術というものだよ。」
「レディ。妹さんはどこにいるんだい。」
そう訊いたとき、入口から声がした。
「ダーレン!もう…ここにいたの?心配したよ。病院で待っててって言ったでしよ。」
少々オカンムリな表情でディヴィが入って来た。
「ごめんよ!ディヴィ。気分が良かったからついつい。」
「わたしこそゴメン。」そう言った後、話題を変えるように「また満点よ!」と言った。
「ホントいつ勉強しているのかしら?」
「満点て?」
「数学の試験よ。大学行くんでしょ?特待生さん。どういう頭の構造しているのかしら?わたしにも教えてよ!」
ふとどこからか声が聞こえたような気がした。
「問われた時点で答えはすでにある。世界はひとつの問いに無数の答えを用意しているんだ。」
「ああーっ」急に叫んだのはレディ・ブラックだった。
「ひとつは多なり。そう!ひとつは多なりだ。欠け一文はクレストラだ。」
プランクドラ…それは逆転する。
クレストラ…ひとつは多なり。
『プランクドラ』に『クレストラ』。…か。
目の前の空間が歪んでいた。
トポロジーは常に時間の不連続性と物質の重力に影響を受けるのだ。
「ディヴィ!ぼくらの存在こそが、この世界の答えなんだ。無数の階段が螺旋状の続いていて、堕ちることも、昇ることもできる。僕には思い出さなくてはならない物語がある。それはきみの物語でもある。」
ディヴィは目を見開いて私を見ている。
きっと答えはもうすぐだ。
「一緒に探してくれないだろうか?」
「きてっ!」
デイヴィの手が私の手を取った。
…おわり