マツの間を縫って歩道が続いている。大西洋か見える遊歩道らしいが人っこ一人歩いてはいない。大人二人分の高さを一般道が走っているが、こちらも時折りとトラックが走るエンジン音が鳴り響く程度である。

海に突き出た半島は碧々とのどかでフェリの泥雲のような脳裏にさわやかな海風を吹かした。

「ああ、何を見せられたのか分かんない」

フェリは頭の中の泥雲から突如鳴り響く遠雷のような声を上げた。

「ミゼル。歩けるか?」

「自分の体じゃないみたい。フェリは眩暈がない?」

「船酔いと同じ。長い夢の中を下っていた。いやあれはクジラの記憶だ。それも数世紀に渡る記憶だ」

「わたし能力が無くなったみたい。体のあちこちで記憶がショートして弾けている」

「ミゼルの中では映像がランダムに点滅している」

「わかるの?」

「能力を失った訳じゃない。僕らの脳がバグした訳でもない。個人の脳には収まりきれない量が流れ込んできた」

フェリは立ち止まって「…でも強いメッセージが何度も何度も伝わってきた」と言った。

「ネアンを止めろ!わたしも聞いた。どういう意味かしら?」

「ミゼルにも聞こえたのか。僕らが呼ばれた何かしらの理由があるんだろう」

「マルクは施設?」

「マルクの能力は水との親和性だ。マルクにはまだマルク自身も気づかない能力が眠っている」

「ふふ。マルクの人格みたいに」

「そうだね。人格それぞれが中心から派生する異なった能力を持っているみたいだ」

「怖いわ。私達の身体に何が起こっているの」

「人間のもくろみを自然は超えてくる。あのクジラは正に使いだった。たぶん僕らに気づいたんだ」

「私たち?」

「マルクを入れた三人。僕らにはしなくてはならないことがある」

「夢ね。ネアンとは何ものかしら」

 

「大丈夫か?」とリジーに話しかけながら、田舎の詩人なら春風の口づけとでも呼ぶような、空を見上げて口笛でも吹きたくなるような、そんな高揚感にも似た感情が芽生えているのに気づいた。それがどこから来たのか少しもわからなかったが、足下の弾力性のある地面にビートを刻んでいるような気分。ジョンを見るといつもの引力に負けそうな皮下脂肪がピンと張って、うつむき加減の姿勢がしゃきっと伸びている。ジョンもまた何か感じるものがあるのだ。そして驚くべき言葉を発した。そもそも戦場に行っていたなんて信じられないくらいに、ジョンは少しも好戦的でないばかりか、戦争のPTSDは一生をかけて罪を償えという神の啓示だとも言っているやつだ。そんなジョンのひと言にマイカは耳を疑い、答えた自分のひと言にも驚いた。

「戦場というものは否応なしに向こうからやってくるもんだ。懺悔の前に準備し決行しなくてはならん。準備はできてるか?」

「準備はできて。スイッチが見つからなかっただけさ」

ああ、そうだ。準備はできていた。ひと押しが足りなかっただけだ。しかし戦場はどこにあるのだろう?

見上げた十階建ての病院が十オクターブもの音域を持つ鍵盤に見えた。朝の歌い手は数多くいるものだ。しかしその不協和音を正す者は誰もいない。

坂を登った先にある病院の側面には緊急搬入口、正面には広い駐車場がある。その広い空間さえ朝は混雑している。子供から年寄りまで老若男女が入り乱れている。病院へ来ることを間違いなく必要としている者から不安病の慰めを求める者、見舞い客に薬や最新医療機器のセールスマン、ときにはクレイマーや談話をしに来る者まで様々だ。いつもならたっぷりの鬱陶しさと分厚いマスクのような閉塞感に襲われるのだが今日は違う。

何か開かれているような気分。爽快さすら感じる。

理由はわからないが気分は悪くない。アドレナリン?

病院正面入口から二名の明らかに不審な男たちが近づいてきた。スーツ姿でどちらもある意味いかつい。

脳の奥でシグナルが鳴り始めている。シグナルの告げる言葉は「気をつけろ」だ。

「おやおや、ジョンじゃないか。朝からシューマン先生のところかね」駐車案内のマットが声をかけてきた。「そっちの二人は?珍しく連れかね」

顔を見合わせたスーツの男たちは口元に笑みを浮かべた。一人が携帯を取り出した。

「ネアン。さあ帰ろう」

一人の男がジョンの隣を過ぎようとしたとき、その声が耳元で爆発した。

― タイミングは今 ―

ジョンがその大柄な身体をいかして脇の男に体当たりを喰らわすと、マイカは携帯を手にした男にぶつかっていった。二人がのけぞって地面に転がったのを見ながらジョンが叫んだ。「走れ。向こうの階段へ急げ」

病院と反対側に協会へと続く細い階段の道があった。三人は一斉に駆け出した。

「とまれ」

振り返る余裕はない。マイカは必死に地を蹴った。地面が弾み、身体は前へ前へと飛ぶように進んだ。巨体のジョンでさえも腹を揺らしながら脇を走っている。リジーは数メートル先を鹿のように走っていく。ネアン?それはリジーにかけられた言葉だったのだろうか?

甘い薔薇の香りが鼻をついた。患者の憩いの庭には色鮮やかなベコニアの花やマリーゴールドが咲き誇り、コリダリスの鈴が揃って鳴り出すと、コレオプシスの黄色い花が風に点滅し、サルビアが危険色を蜂の羽音のようにつぶやきはじめた。足が地面を軽々と蹴り、ジョンも負けじと二番手を往年のベン・ジョンソンのように走っていく。花壇からはみ出したリシマキアを踏みつけ、つる薔薇のトレリスのコーナーを過ぎると「ネアン」と再び叫ぶ声が聞こえた。

往来が近づくと走り去るバイクの爆音が聴こえた。続けざまにパトカーの音、ついで遠くから緊急車両のサイレンが聞こえてくる。なんという朝だ。

果樹やミズキ、カエデやオークの木々がひそひそとつぶやき、走り抜けた道を塞いでいくような感覚に襲われた。それは決して嫌なものではなく、誰かの優しい息づかいのように思えたのだが。

振り返る余裕もないまま、マイカたちは貧民街の入り組んだ道へと飛び込んでいった。

 

その少し前、ブラウン家に到着したカーズ・マグレー巡査は泣き止まぬケイティ・ブラウンに連れられて廊下の左手にある居間へと入った。夫のティモシーがソファーに深々と腰を下ろし、手を血で真っ赤にしながら熱に浮かされた表情で「やあ、刑事さん」と言った。「わたし、どうかしてたの」後ろに立ちほうけていたケイティがつぶやいた。

夫ティモシーの意識があることに少なからず安心し、救命士たちがタンカに乗せて急ぎ緊急車両に運び込んだ。それを見届けたカーズは家へと引き返しまだ立っているケイティの腕を取り一緒に来るように促した。

玄関を出たとき家の中で電話が鳴った。と同時に突然の爆音が坂の下から聞こえてきた。何事かと目を走らせたカーズの視線の先を法定速度を優に超えた自動二輪が狂ったように走り抜けた。

「ブラウン夫人を頼む」

カーズはそう言い残すとすぐさま車へ向かった。ギアを入れハンドルを握ると思い切りアクセルを踏み込んだ。

神聖な朝(セントローズ)をぶち壊しやがって…

使命感に燃えたカーズは署に無線を入れた。

電話口に誰もでないことに苛立ちを隠せないマイカの担任はつま先で何度も廊下の床を叩いた。そして言った。

「愚か者は時間ばかりか自分の存在さえ無駄にする」

 

 

  …つづく