ジョシュの大型バイクは崖の下で発見された。

一方ジョシュはというとベッカーに問い詰められていた。

「分からないだと。ネアンについて覚えていることは?」

やがてカリッシュが言った。

「なに現代の情報網はまさに網だ。かならず引っかかる。勘違い馬鹿者のことはいい。ゴミは始末しろ」と。

 

エドワード記念病院はサムの自転車店から歩いて三十分ほどの高台にあった。その手前には教会があり、少し離れて消防署がある。ジョン・マッキントレーは戦後のPTSDに悩み、病院と教会を行き来していたらしい。セカンドハウスとサードハウス。そうジョンは教会と病院を呼んでいた。もっとも本人が住むアパートは築百年のオンボロアパートという噂だった。マイカが父から聞いたのは数年前だったが、そのときもアパートは築百年と言われていた。

協会が近づくとジョンは立ち止まり指で十字を切った。言葉を慎め、天の神が見下ろしているとでもいうように。

教会を過ぎた頃リジーは急に手で何かを追い払う仕草を繰り返した。

「どうかした?リジー」

邪まな人間たちが来る

えっ、邪まな人間?マイカがもう一度尋ねようとするとジョンが厳かに言った。

「だからこそ信仰が必要なんだ。生きることは試されることだ。人生の答えとはただの解ではない。それは道だ。生き方だよ」

また始まったか、そう思いながらマイカは別なことを考えていた。リジーは精神でも病んだ人間なのだろうかと。

マイカがそんな思いにとらわれながら歩いていると、風がリジーの髪をふわりとなびかせ、顔全体が昇りゆく太陽の光で薄紅色に輝いた。浜で見たときの青白い肌色ではすでになかった。その瞬間、マイカの胸はどきりと大きな音を立てて高鳴った。その仕草、その表情、身体を作る曲線とともに、マイカはリジーが初めて出会う美しい女性であると確信した。そしてその瞳を覗き込もうとしたとき、一瞬リジーの瞳が灰色に見えた。

見間違い?と目を瞬いている隙にリジーの瞳はエメラルド色に変わっていた。

 

その頃カリッシュにクライン社の会長エドワード・エキリから連絡が入っていた。

「まずいぞ。ネアンが逃げたことを会長が知ったようだ。ここへ来ると言ってる。まだヒットしないのか?」

モニタールームの十台のパソコンと、持ち込まれた六台のノートパソコンがすべてネットに繋がれ、計十六台の前に十六人が座り込んでディスク画面を見ている。その様子はまるでネットショッピングのコールセンターの様相を呈していた。

「本当にヒットしますかね」

「もちろん捜索は続けている。海へ逃げたら魚たちの、空へ逃げたら鳥たちの協力が必要だとは思わないかね」

「意味がわかりません」ベッカー言った。

「ネット社会の恐ろしさは、自分のプライバシーの保護をうたいながらも、他者のプライバシーには土足で上がり込み、第三者へとふれこむことに罪悪感すらない者が多くいる。彼らはネット社会の歪んだ監視カメラといってもいい。もしネアンが誰かと出会ったなら、誰かが見かけたなら、その内の一人でも蔓延するネット社会にどっぷりとつかっていたなら、彼の目が我々の監視カメラになる」

ネアンには秘密がある。交通・防犯の監視カメラを利用するには政府にその理由を公にする必要がある。そうなればネアンは我々の手から奪い去られることだろう。それはできない。

わずかな希望とはいえカリッシュには確信があった。

ネアンの第一印象は間違いなく誰かの目に止まるはずだと。その誰かが一般人であれ、ネットの耽溺者であれ、彼らの情報をどうフィッシングできるかに事の成り行きはかかっている。

不特定多数の第三者の目がネアンを見つけ、猟犬のように追跡をはじめる光景がカリッシュの脳裏に映し出された。

すると「ヒットしました」との声が部屋に上がった。そしてその後、続けざまにふたつ。

その中の一つにはかなりの信憑性があった。場所は十キロほど先のセントローズの町。港町ではないが浜沿いに広がる町である。ネットの情報によれば、太っちよでパラノイアの黒人と落ちこぼれの高校生が、病んでいそうな女性を坂の上の病院へ連れいくところだったというもの。

「十キロ範囲というのは確認が必要なのでは?」

「セントローズは海沿いだな。病院は確かエドワード記念病院・・・」

カリッシュはベッカーと目配せをすると保安のゲイルに当人とわかったら回収する支持をだした。ゲイルが出て行くと発信者の身元確認と協力を促し、エドワード記念病院にはネアンを患者として保護してくれるように連絡を済ませた。

その様子をそっとうかがい、気づかれぬようにその場所を離れた者がいた。看護師のアマンダである。彼女は一階の奥へと向かっていた。里慈(リジー)の危惧していたことが現実とならないように。

 

「どうした?いかないのか?」

病院を前にした坂道でのことだった。

ジョンの言葉に後ろを振り返ると、立ち止まったリジーが両手で頭を押さえている。苦悶の表情を浮かべて駄々っ子のように頭を振っている。

「リジー」

大丈夫か?と聞く前にジョンが近づいてきて言った。

「死者が見えるのか?それとも聞こえるのか?」

「何言ってんだよ」マイカが間に立ち塞がった。

「極限の戦場で死者の姿を見、死者の声を聞いて死んでいった仲間を知っている。ちょうどそいつのようだ。見えるか聞こえるかしているに違いない」

「まさか」…そんなことはない。

マイカにはリジーの苦悶する姿すら美しく思えた。

だが、近づこうとしてその場に立ち止まった。リジーの目が濃い灰色だったからだ。それも深い闇を湛えていた。

「来る。来る。私を捕まえに来る」

浜の方角を見つめたリジーがぽつりと言った。

 

ジョシュが研究所をお払い箱になって路頭に迷う寸前、ネアンがセントローズの町にいるらしいとの情報をアマンダが持ってきた。ただその町は通過点に過ぎないとジョシュは考えた。誰しも孤独ではいられない。ネアンは里慈(リジー)のもとへと向かったのだ。里慈は人道主義者であったばかりか、進化論よりも聖書の天地創造を信じている。「神は今もお働きだ」とよく言っていた。その里慈はネアンが発見されたラッカ市に、しいてはカーソンの森へ行くと言っていたことがある。ラッカ市はセントローズの遥か先、距離にして百五十キロほどの距離にある。

アマンダの導きで研究所の裏手にまわったジョシュは車の鍵を託され、裏口から一路荒野へと走り出した。一刻も早くネアンを捜し出さなければならない。

岬のS字カーブを今度は難なく抜けるとジョシュはさらに加速した。

救世主だって?世界は時に面白いような輝きを放つときがある。もうミスはしたくない。

 

マイカ・ブラウンの担任マーカス・マッコイが教室に入ってきたとき、教室はいつも以上に平和な一日の始まりを告げていた。欠けている席などないと思っていると、エマ・ジョンソンが席を立ち上がりマイカがまだ来ていないことを報告した。

「マイカだと。見た者はおらんか」

「バスに乗り遅れるのを見ました」

リッキー・バスティアがそう声を上げた。すぐさまエマの後ろの席から揶揄する声が飛んだ。

あらダーリン。朝は一緒に起きなかったの?一緒に朝食を食べてバスも一緒の座席のはずでしょ?」

もっぱらエマはマイカと付き合っていると知れ渡っている。顔は…まあそれはいいが、秀才でもあるエマが落ちこぼれのマイカと付き合っている理由は誰も知らない。エマはくるりと振り返ると、机に前のめりになっていたチャーリーに向かってノートを振り下ろした。咄嗟にかわしたチャーリーが身をよじらせて言った。

「怒っちゃだめよエマ

一斉に湧き上がったクラスを見て担任はうんざりした声を上げた。今日一日の平和が見事に消し飛んだことを呪いながら。

「静かにしなさい。愚か者はいつでも時間を無駄にする」

それは暗に留年の危機がさらにマイカに迫ったことを意味していた。

心の中に起きた小さなつむじ風を沈めようと、担任はブラウン家に今の状況が起こすであろう結末をしっかりと伝えたい欲求にかられた。思春期の熱情的カオスから顔を背け、携帯を手にして廊下に出たとき、ブラウン家は切迫した状況にあった。

セント・ローズ中央署にカーズ・マグレー巡査が飲みかけのコーヒーを手に出勤したのは定刻ぎりぎりだった。突然鳴り出した電話を積極的に手に取ると危うくコーヒーを落としそうになった。「どうしましょ」とその声は言った。

「私、主人を刺してしまった。主人の腹から血が…会社にいるあばずれのせいよ。みんなあいつのせい…マイカもいないし…どうしましょ。血が止まらないわ」

 

その頃フロリダ半島の沖で巨大なクジラの発見が相次いでいた。

ついに世界一孤独なクジラといわれる52Hzのクジラが発見か、とニュースは取り上げ、52Hzの秘密を解くニュースも錯綜するハメになった。

しかしクジラは謎の52Hzの歌を歌い大西洋に消えていった。